第19話:奇跡の裏側
広場での出来事は、翌朝には帝都全域に広がっていた。
目撃者が多すぎた。封鎖しようとしても、封鎖できる量ではなかった。情報部が動いたが、動く前にすでに広がっていた。人から人へ、路地から路地へ、市場から市場へ。帝都の情報の流れは、魔術的な遮断には適しているが、人間の口を通じた伝達には無力だった。
「触媒を使って奇跡を演出していた」という話が広がった。
解釈は様々だった。
「全部が偽物だった」と言う者がいた。「一部だけが薬品で、本当の奇跡もある」と言う者がいた。「見たものを信じる。あれは確かに薬品の反応だった」と言う者がいた。「爆炎師の嘘だ」と言う者もいた。
しかし全員に共通していたのは、疑問が生まれたという事実だった。
これまで疑問を持ったことがなかった人間の中に、最初の疑問が生まれた。一度生まれた疑問は消えない。答えが出なければ、ずっと残る。
神官長ヴァルナは夜明け前から動いていた。
神官庁の技術部門に命令を出した。触媒の製造記録を全て封印しろ。使用記録も封印しろ。関係する技術官の外出を禁止しろ。発言を禁じろ。
しかし技術官の一人が、すでに外に出ていた。
広場での出来事を見た技術官がいた。神官庁の内部にも、ヴァルナに不満を持つ人間がいた。長年、秘密の維持を強いられてきた人間の中に、これを機会と見た者がいた。
その技術官が、帝都の新聞記者に接触した。
記事が出た。
「帝国神官庁、治癒式典に化学触媒を使用していたことが関係者の証言で判明」
小さな記事だった。しかし出た。出てしまえば、封じることができない。
ヴァルナは記事を読んだ。
「誰が話した」と言った。
部下が調査を始めた。しかしそれより先に、別の問題が起きた。
証言が一つ出れば、次の証言が出やすくなる。一人が話せば、次の一人が話す。神官庁の技術部門の中で、長年触媒の使用に関わってきた人間の中に、話したいと思っていた人間が複数いた。
一日で証言が三件になった。
三日で七件になった。
カールたちは廃工場から離れた場所に移動していた。
広場での行動の後、帝都の中心部にはいられなかった。情報部と軍が総力で捜索していた。帝都外縁部の古い農家を借りた。持ち主は加護なき者だった。カールたちを匿うことの危険を説明した。それでも匿ってくれた。
「広場での出来事が広がっている」とゲンツが言った。情報を確認しながら言った。「神官庁からの証言が複数出ている。触媒の使用が事実として受け入れられ始めている」
カールは窓の外を見た。農地が広がっていた。帝都の喧騒から離れた場所だった。
「帝国はすでに化学を否定できない」とカールは言った。
「どういう意味だ」とスーケリーが聞いた。
「神官庁が触媒を使っていた。帝国軍の照明弾に燃えやすい金属を使っていた。魔石の強化に化学処理を使っていた。帝国はとっくに化学を取り込んでいた。しかし表向きは化学を否定し、加護なき者を排除してきた」
「矛盾だ」
「そうだ。化学が役に立つから使う。しかし化学を語る人間は不要だと言う。化学の成果だけ奪って、化学の研究者は処刑台に送る」
ゲンツが言った。「なのに俺たちは不要と言った」
静かな笑いが漏れた。声に出して笑ったわけではなかった。ただ、笑わずにいられない、という顔だった。
「矛盾してるな」とゲンツは言った。
「最初から矛盾していた」とカールは言った。「ただ、力があれば矛盾は通る。力が揺らぎ始めた時に、矛盾が見えてくる」
帝都では連鎖が続いていた。
神官庁の内部から証言が出始めると、別の場所でも同様の動きが起きた。
帝国軍の補給部門で働いていた元技術者が話した。「軍の照明弾に使う金属の調達を長年担当していた。その金属は化学的な性質を利用したものだと知っていた。しかし加護の力だと説明するよう命令されていた」
帝都の病院で働く医師が話した。「特定の薬草の組み合わせが、傷の治癒を促進することを知っていた。それを神官庁に報告すると、奇跡として組み込まれた。薬草の効果だと言うと叱責された」
証言は広がった。
全てが触媒の問題ではなかった。帝国が「加護の奇跡」として民衆に見せてきたものの中に、化学的・医学的な現象が含まれていたという証言が積み重なった。
「火消しに奔走している」とゲンツが情報を整理しながら言った。「神官長が動いているが、遅い。証言の出所を一つ止めても、別の場所から出てくる」
「水が滲み出している」とスーケリーが言った。「穴を一つ塞いでも、別の穴から出てくる。元々、全体に水が染み込んでいたからだ」
「正確な表現だ」とカールは言った。
「どこまで広がる」
「分からない。広がり方は民衆の選択にかかっている。俺たちが決めることじゃない」
神官長ヴァルナの執務室は、三日間眠れていない様子だった。
部下が次々と報告を持ってくる。証言が出た。記事が出た。民衆がこう言っている。市場でこういう話が広まっている。
「情報を封鎖しろ」とヴァルナは言い続けた。「聖女の権威が崩れる前に」
「封鎖の限界を超えています」と部下が言った。「証言の出所が多すぎます。一つ止めると別が出ます」
「神官庁の技術部門を全員拘束しろ」
「すでに証言した人間は外部に出ています。拘束できるのは残っている人間だけです」
「残っている人間を拘束しろ」
「拘束すれば、残っている人間が話さないという証拠を隠滅しようとしていると受け取られます。かえって証言の信頼性が上がります」
ヴァルナは執務室の机を見た。書類が積み上がっていた。三日分の報告書だった。
「聖女の権威を保つ方法を考えろ」とヴァルナは言った。「触媒を使っていたとしても、聖女の加護は本物だという主張を補強する材料を集めろ」
「しかし聖女の治癒は触媒によるものです。加護による部分を示す証拠が」
「加護は見えないものだ」とヴァルナは遮った。「見えないものを否定することはできない。証拠がないからといって、存在しないとは言えない」
部下は黙った。
ヴァルナは立ち上がった。「神学者を集めろ。今夜中に。触媒の使用と加護の共存を論じる文書を作れ。触媒は加護を補助するものであり、加護そのものを否定しない。そういう論理を作れ」
「それは」
「命令だ」
部下が退出した。
ヴァルナは一人になった。
窓の外を見た。帝都の夜だった。魔術の灯りが街を照らしていた。いつもと同じ光景だった。しかし何かが違った。
灯りは同じだった。しかし灯りを見る人間が変わりつつあった。
触媒を使っていた、という事実が広まれば、次の問いが来る。他に何を使っていたのか。何が本当で、何が演出だったのか。
その問いが広がれば、聖女の制度だけでなく、帝国の権威全体が揺らぐ。
ヴァルナはそれを止めようとしていた。
しかし止め方が分からなかった。
事実が出てしまった。事実は否定できない。見た人間がいる。証言した人間がいる。記事になった。広場で再現された。
嘘をついても、嘘だと分かっている人間がいる。
ヴァルナは机に戻った。
神学者への命令書を書き始めた。書きながら思った。これは時間稼ぎだ。根本的な解決ではない。
しかし今夜できることは、これだけだった。
農家の窓から、カールは帝都の方向を見ていた。
夜の空に魔術の灯りが見えた。帝都は光っていた。
「次は神官長だ」とカールは言った。
「順番通りだ」とゲンツが答えた。
スーケリーが壁に寄りかかったまま言った。「エレンは神官長を倒せば次に考えると言っていた。約束を覚えているか」
「覚えている」とカールは言った。
スーケリーは何も続けなかった。
カールは窓の外を見た。帝都の灯りは変わらなかった。
しかし三日前と比べて、何かが変わっていた。灯りではなく、その灯りを見る人間の中に。
カールにはそれが感じられた。感じられるだけで、それがどこへ向かうかは分からなかった。
分からないことを、今夜は考えなかった。
今夜考えることは神官長への次の手順だった。




