第15話:沈黙の領域
バルト判事の別邸を確認してから二日が経っていた。
別邸への突入は失敗した。
警備が増強されていた。ハイネ将軍の命令が届いていた。カールたちが川を渡ったことへの対応だった。別邸の周囲に兵士が三十人以上配置され、魔術師も複数が待機していた。正面からの突入は不可能だった。
「退く」とカールは言った。
「バルトは逃げるかもしれない」とゲンツが言った。
「逃げたら追う。今は退く」
それ以上の議論はしなかった。無理に動けば三人とも失う。退くことが判断だった。
問題が起きたのは、退く途中だった。
廃工場地帯の外縁部を移動していた時、空気が変わった。
物理的な変化ではなかった。何かが薄くなった感覚だった。空気の密度が変わったのではない。別の何かが変わった。
ゲンツが最初に気づいた。
「装置が死んだ」と言った。電気装置を見ながら言った。充電されているはずの装置が、全く反応しなかった。「全部だ。一つも動かない」
カールは懐の発火装置を確認した。火花石を打った。火花が散らなかった。打ち直した。やはり散らなかった。
「火花が出ない」
「俺の装置も同じだ」ゲンツが言った。「電気が通っていない。いや、通っているはずなのに、機能しない。まるで何かに吸われているようだ」
スーケリーが装置を確認した。「こちらは動く。火薬の点火は機械式だから」
「着火系統だけが止まっている」とカールは言った。「電気と火花だけが機能しない」
周囲を確認した。
百メートルほど先に、人影があった。一人だった。灰色のローブを着ていた。どの属性の紋章も持っていない。無紋のローブだった。
「あれは何だ」とゲンツが言った。
カールは人影を見た。
人影は動いていなかった。立っているだけだった。両手を広げていた。目を閉じているように見えた。
「結界を張っている」とカールは言った。「あの人間が展開している結界が、着火系統を止めている」
「魔力反応を遮断しているのか」
「おそらく魔力に依存する反応を全て無効化している。火花も電気も、ある種の物理反応は魔力と類似した現象を使う。それを区別せずに全部遮断しているとすれば、こういう現象が起きる」
「止める方法は」
カールは考えた。
「結界を張っている魔術師を止めれば結界も止まる」とスーケリーが言った。装置を構え始めた。
しかしその瞬間、周囲から兵士が現れた。
廃工場の影から、物陰から、屋根の上から。十五人以上だった。魔術師が三人いた。完全に包囲されていた。
「観念しろ」と声が響いた。
灰色のローブの魔術師が口を開いた。声は静かだった。感情がなかった。
「ここでは何もできまい。お前たちの装置は機能しない。私の結界の中では、着火も放電も起きない。逃げ場もない。観念しろ」
スーケリーが装置を向けた。「こちらの装置は動く」
「試してみろ」と魔術師は言った。「私を狙えばいい。しかし私を撃てば、周囲の兵士が動く。お前たちは三人だ。兵士は十五人いる。私が倒れても、結界が消える前に制圧される」
沈黙があった。
計算は正しかった。カールはそれを認めた。スーケリーが一発で魔術師を倒したとして、その後に結界が消えるまでの間に、兵士十五人に対して三人で対処しなければならない。着火系統が止まっている状態では、カールの手段のほとんどが使えない。
ゲンツが低い声で言った。「打つ手がないか」
カールは答えなかった。
考えていた。
着火系統が止まっている。電気が通らない。火花が散らない。しかし使えるものがある。油は持っている。薬品は持っている。火花がなければ点火できないと思い込んでいるが、本当にそうか。
火花以外で点火する方法があるはずだ。
カールは頭の中で整理した。
点火に必要なのは、燃料と酸素と、それから熱だ。熱が得られれば点火できる。熱の源は火花だけではない。
摩擦。
強い摩擦は熱を生む。熱が燃料に伝われば、点火できる。
カールは懐を確認した。油の入った小瓶がある。布がある。金属片がある。
「時間を稼いでくれ」とカールは小声でゲンツとスーケリーに言った。
「何をする」とゲンツが聞いた。
「魔法を止める結界なら、魔法以外で壊せばいい」
「答えを聞かせろ」と灰色のローブの魔術師が言った。「観念するか、しないか」
スーケリーが一歩前に出た。装置を向けたまま言った。「お前を狙い続ければ、お前は動けない。動けない間は兵士に命令できない。それで十分だ」
「命令しなくても兵士は動く。自分の判断で」
「自分の判断で動く兵士は、組織的に動く兵士より弱い。試してみるか」
魔術師と兵士たちが、スーケリーに集中した。
その間、カールは後退した。一歩、二歩。誰も見ていなかった。全員がスーケリーを見ていた。
廃工場の壁際に移動した。
壁から金属の破片を拾った。廃工場に転がっていた残骸だった。固い金属だった。
次に懐から油の入った小瓶を取り出した。布に染み込ませた。油を染み込ませた布を、金属片で強く擦った。
一度目。熱が生まれなかった。
二度目。わずかに温もった。
三度目。布の端が焦げ始めた。
四度目。小さな火が生まれた。
魔術の反応ではなかった。純粋な摩擦熱だった。結界は関係なかった。
カールは油を染み込ませた別の布に火を移した。
手に持ったまま、兵士たちの方に向かって歩いた。
「動くな」と兵士の一人が叫んだ。カールに気づいた。
カールは布を投げた。
油が燃えながら飛んだ。地面に落ちた。燃えた。
兵士たちが後退した。火を避けた。
「着火した」とゲンツが言った。意味を理解した。「摩擦を使ったのか」
カールは頷かなかった。動きながら答えた。「火花が出なくても、摩擦で熱は生まれる。結界は魔力の反応を止めている。摩擦は止めていない」
次の布に火を移した。別の方向に投げた。
兵士の陣形が乱れた。
スーケリーが動いた。装置を灰色のローブの魔術師に向けたまま、横に移動した。兵士二人が追った。その瞬間、装置が音を上げた。
魔術師の隣にいた別の魔術師が結界を張った。弾かれた。
「結界の外から撃て」とカールは言った。
スーケリーが後退しながら、結界の外縁まで移動した。装置を構え直した。
射程の端で発射した。
灰色のローブの魔術師が倒れた。
結界が揺らいだ。完全には消えなかった。しかし薄くなった。
ゲンツの装置が反応した。
「動く」とゲンツが言った。電気装置を起動した。入り口付近にいた兵士三人が同時に倒れた。
カールは火花石を打った。
火花が散った。
あとは通常の手順だった。油と煙と炎と電気。五分で兵士たちの陣形が崩れた。残りが撤退した。
三人は廃工場から離れた。
帝都の情報部本部に報告が届いたのは夜だった。
沈黙の魔術師エリアスが担架で運び込まれた。意識はあった。しかし右肩が動かなかった。
情報部長ハインケルが病床のエリアスに聞いた。「結界を張っていたのに突破されたのか」
エリアスは答えた。「着火を止めていた。電気も止めていた。しかし摩擦は止められなかった」
「摩擦とは」
「金属と布を擦った。摩擦熱で点火した。結界は魔力の反応を遮断するように設計されている。摩擦という純粋な物理現象は、魔力を使わない。だから止められなかった」
ハインケルは黙った。
「想定していたか」と聞いた。
エリアスは少しの間黙った。それから言った。「していなかった。火を起こすには魔力か火花が必要だと思っていた。摩擦で火を起こせるということを知識としては知っていたが、実戦で使われるとは想定しなかった」
ハインケルは立ち上がった。
「爆炎師は毎回、想定の外から来る」と言った。「想定を広げなければ追いつけない」
エリアスは答えなかった。
担架の上で天井を見ていた。
摩擦で火を起こせる。そんなことは誰でも知っている。しかし実戦でそれを選ぶ人間は、帝国の魔術師の中に一人もいなかった。加護があれば摩擦で火を起こす必要がないからだ。
必要がなかったから、想定しなかった。
その差が、今夜の結果だった。ハインケルは目を瞑った。




