第14話:水の裏切り
帝国が河川を使うという情報は、二日前に入っていた。
帝都の南を流れるアルベ川。帝国の水系魔術師が川沿いに展開しているという報告をゲンツが掴んだ。水系魔術師は単独では攻撃力が低いが、川や湖など大量の水がある場所では別だった。水流を操り、水圧を武器にする。陸上での戦闘とは全く異なる戦場になる。
「川を渡る必要があるのか」とスーケリーが聞いた。
「ある」カールは地図を見た。「バルトの別邸がアルベ川の対岸にある。情報によれば、帝都が危険になった場合の退避先として使っているという。バルトが動き始めたという報告がゲンツから来た。川を渡る前に押さえなければならない」
「水系魔術師を突破する方法は」
カールは地図から目を上げた。「考えていた。材料がいる」
「何が必要だ」
カールは紙に書いた。特定の軟らかい金属の名前だった。
「帝国軍の乾燥剤に使われている金属だ」とカールは言った。「水分を吸収する性質がある。闇市で手に入るか」
ゲンツが考えた。「難しいが不可能ではない。帝国軍の補給倉庫から流れているものがある。一日あれば集められる」
「一日でいい」
ゲンツが材料を調達している間、カールはアルベ川の地形を観察した。
一人で川沿いを歩いた。対岸の様子を見た。水系魔術師が展開しているとすれば、川の中ほどか対岸の岸辺に陣取っているはずだった。水流を操るには水の近くにいる必要がある。
川幅は約四十メートルだった。
流れは緩やかだった。しかし水系魔術師が操作すれば、川全体が武器になる。水流を壁のように立ち上げることも、水圧で人を押し流すことも、経験上可能だと判断した。
スーケリーの装置の射程は三百メートルある。対岸の魔術師を直接狙える。しかし水系魔術師が水の障壁を張れば、鉛塊も弾かれる可能性がある。水が十分な密度で集まれば、物理的な遮断として機能する。
問題は川を渡る手段だった。
橋は三箇所あった。しかし橋の上は最も狙われやすい。水流で橋ごと押し流されれば終わりだ。
川の中を渡ることも難しい。水中では動きが制限される。水系魔術師の得意な戦場に飛び込むことになる。
カールは川面を見た。
水は流れていた。対岸の葦の茂みが風に揺れていた。どこかに魔術師がいるはずだった。見えなかった。しかし気配があった。
観察を続けた。
水面の動きが、流れとは違う揺らぎを見せた。規則的な揺らぎだった。魔術師が水を監視しながら、微細な操作をしている時に出る揺れだった。
位置が分かった。
対岸の葦の茂みの中、川から五メートルほど離れた場所に複数の人影があった。三人か四人だった。
カールは宿に戻った。
翌日の夜明け前、三人でアルベ川に向かった。
ゲンツが調達した金属は、石蝋のような見た目だった。切ると銀色の断面が現れる。空気には安定しているが、水に触れると激しく反応する。
「本当にこれが爆発するのか」とゲンツが金属の塊を見ながら言った。
「爆発するのは水素だ」カールは答えた。「この金属が水に触れると、水から水素を引き抜く。引き抜かれた水素が気体になって出てくる。水素は空気より軽いから上に向かう。そこに火花が一つでもあれば」
「爆発する」
「水素が燃える。激しく燃える。水面に広がった水素が一気に燃えれば、河面全体が燃える」
「水が燃えるように見える」
「水が燃えているわけじゃない。水面の上の水素が燃えている。しかし見た目には区別がつかない」
ゲンツは塊を慎重に扱いながら言った。「水系魔術師は水で攻撃してくる。水の近くにいる。水面が爆発すれば」
「一番近くにいる人間が一番被害を受ける」
川が見えてきた。夜明け前の薄暗さの中で、水面が鈍く光っていた。
「動く」とスーケリーが言った。対岸の葦の茂みを見ていた。「魔術師が展開し始めている」
水面が変わった。流れが変わった。対岸から川に向かって、水が盛り上がり始めた。水系魔術師が川の制御を始めたのだった。
「来るぞ」とゲンツが言った。
水の壁が立ち上がった。川の中央から岸に向かって、巨大な水流が動いてきた。高さは三メートルを超えていた。
「走れ」とカールは言った。
三人は川沿いを走った。水の壁が追いかけてきた。完全に逃げ切ることはできない。しかし距離を保てれば時間が稼げる。
カールは走りながら金属の塊を取り出した。
水の壁が近づいていた。
カールは川に向かって投げた。
金属の塊が川面に落ちた。
最初は何も起きなかった。
一秒後、川面が白く泡立ち始めた。金属が水と反応して水素を発生させていた。気体が水面を覆い始めた。
二秒後、カールは火花石を打った。
川面が爆発した。
爆発は一点から広がった。水面を覆っていた水素が一気に燃えた。炎が河面を走った。対岸まで届いた。
水の壁が乱れた。水流を操っていた魔術師が詠唱を中断した。炎が対岸の岸辺を舐めた。
「水が燃えた」とゲンツが言った。
「水素が燃えた」とカールは言いながら、追加の金属塊を川に投げた。
二度目の爆発が起きた。川の別の区画が燃えた。水系魔術師の陣形が崩れた。
対岸から叫び声が聞こえた。
「水が燃えるはずがない」という声だった。
炎が声の方向に広がっていた。
スーケリーが装置を構えた。炎と煙で視界が悪かった。しかし対岸の人影を確認した。装置が発射音を上げた。対岸で魔術師の一人が倒れた。
残りの魔術師が撤退を始めた。
カールは川を見た。河面に炎が走っていた。水の上で炎が燃えていた。水が燃えているように見えた。そうではないことをカールは知っていた。しかしその光景は、見る者に根本的な混乱を与えていた。
水が信用できない。
水で攻撃しようとした人間にとって、自分の武器が燃え上がるという経験は、戦闘能力以上のものを奪う。
川を渡った。対岸に渡し船があった。使った。
対岸に着いた時、スーケリーが言った。
「ほんと、水が爆発するって、どういう理屈なのよ」
カールは歩きながら答えた。「水と、ある金属が反応すると水素が出る。水素は燃える。それだけだ」
「それだけ、ね」
「そう。それだけだ」
スーケリーはしばらく黙って歩いた。「説明は分かった。でも、あの光景は、理解が追いつかなかった」
「魔術師も同じだ」カールは言った。
「知識がなければ、目の前の現象が理解できない。理解できなければ対処できない。それが今起きたことだ」
三人はバルト判事の別邸に向かった。
帝国軍の前線司令部に報告が届いたのは朝だった。
帝国軍将軍、ハイネは地図を見ていた。アルベ川の位置に印がついていた。
「河川防衛線が突破されたか」とハイネは言った。
報告した将校が答えた。「水系魔術師の部隊が撤退しました。川面が爆発したという報告です。水面が燃えたと」
「水面が燃える」
「水素という気体が爆発したようです。詳細は不明ですが、水系魔術師の制御が崩れたことは確認されています」
ハイネは地図の上のアルベ川を見た。
「川を使った防衛線を突破された。対岸に渡られた」将軍は立ち上がった。「次の手を打て。バルトの別邸周辺の警備を増強しろ。今すぐ」
将校が走った。
ハイネは地図を見続けた。
河川防衛線は帝国の防衛設計の中でも信頼性が高いとされていた。水系魔術師が川を制御すれば、対岸への侵攻は不可能に近い。それが防衛の前提だった。
水が燃えた。
その前提が崩れた。
ハイネは地図から目を上げた。窓の外を見た。
これまで爆炎師グループは、帝国が想定しなかった現象を次々と使ってきた。空気が爆発した。金属の反応が障壁を溶かした。そして今度は水が燃えた。
次は何だ。
ハイネはその問いを頭の中で持ち続けながら、次の命令を出すための地図に視線を戻した。




