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07

 黒木と田中は、門を抜けてしばらく歩くと、川岸に着いた。左右を見渡しても途切れることなく続いている流れがある。


 足元には黒い砂が湿って貼りつき、足跡はすぐに滲んで消えていく。川は、手前こそ透き通るほど澄んでいるが、奥へ進むにつれて深い影を落とし、見渡す限りの水面の先は、闇が溶け合ったように境を失っていた。


 風が田中の頬をひりひりと刺激する。どこからともなく水面を渡ってくる「カラン……」という微かな金属音が耳の奥で反響し、いつまでも鳴り続けている気さえしていた。黒木から渡された鐘を左手で抱えるように持ち、一瞥した後小舟に目を向けた。


 黒木は無言のまま小舟に足をかけ、きしむ音も立てずに乗り込む。そして振り返り、目だけで田中に合図を送った。——乗れ。


 田中はそろそろと黒木の後を追う。舟べりに手をかけた時、寒さで指先の感覚が損なわれていた事に気づく。その不安定さは、まるで乗ることを舟に拒まれているかのようだった。それでも歯を食いしばり、勢いに任せて乗り込む。すると、小舟はひとりでに動き出した。


 櫂が、誰も握っていないのに静かに上下して水面を叩き、「チャプ……チャプ……」と、規則的な音を立てる。小舟が動き出し、二人は徐々に暗闇の奥へと吸い込まれていった。


 しばらく進んでから背後を振り返れば、門があった場所はもう見えなくなっていた。ただ、彼らの乗る舟は、闇の中をゆっくりと進んでいく。


 その光景はまるで、生と死のあいだを彷徨う魂の航路。二人は、確かにその狭間にいた。




***




 無事、小舟は向こう岸へと辿り着いた。水面に波紋が広がりきる前に、黒木は岸へ降り立っていた。


「うわっ……!」


 続けて降りた田中は、砂に足を取られて、危うく前のめりに転びそうになる。黒木が面倒くさそうに横目でそれを見て、鼻を鳴らした。


 辿り着いた先では見渡す限り、幾重にもなる巨大な城壁と堀が連なっている。それらは上空に溶け込んで、どこまで続いているのか判然としない。


 堀の水はほとんど流れを持たず、それでいて絶え間なく濁った渦が立ち上り、その底には “何か” が沈んでいる気配だけが存在していた。


 その時だった。


 黒木と田中の全身から、ふっと温度が抜け落ちるような感覚が訪れた。骨の芯を撫でられるような、そして表面を吸われるような奇妙な感触。知らないうちに身体の一部を置き去りにしてきたかのような喪失感があった。


「……なんだ、今の?」


 黒木が眉をひそめると、田中は身を抱えながら呟く。


「な、なんですかね? なんか、取られた? みたいな……」


 ここは、生と死を分かつ明確な境界線。死者が集う地に、命あるものが紛れ込んだゆえに起きる “代償” のような現象。


 ——彼らは、死者として冥府に滞在する資格を得てしまった。


 黒木は不快げに肩を回し、周囲へと視線を巡らせた。その視線の先で、堀の縁に白衣の男が立っている。


 男は白髪まじりの短髪で長身痩躯。こちらを見て静かに手招きをしている。まるで、昔からずっとそこにいるかのような、落ち着いた振る舞いと自然な表情だった。黒木と田中はゆっくりと男に近づいて行く。


 男は、二人を見て小さく息を吐いた。


「私は観測者の ツゲ と申します。珍しい……川を越えてこちら迄いらっしゃったか。これまでそんな方は見たことがない。生者でありながら、死者としても視える」


 田中は身じろぐように後ずさり、黒木は露骨に睨みつけた。ツゲはそんな二人を均等に見据えながら告げる。


「ここは冥府の縁。非常に稀ではありますが、生者が突然迷い込むことも……本来、死の境界を越えた、魂の自由域となります。どこへ行ってもよろしいのですが……」


 黒木が鼻で笑う。


「じゃあ勝手に捜索するぜ。奥の城でもなんでも──」


 ツゲはゆっくりと首を横に振った。


「城壁を超えては行けません」


 黒木は首を傾げる。


 ツゲは黒木の背後、重なる城壁の最も内側を指した。


「奥は冥府の核。死者の魂が正式に “罪の清算” を終え、行き先が分類される場所。そこへ踏み込むには手順が必要となります。城壁の門は “開くため” に存在するのではありません。また、望んだ者が通るものでもなく、通れる者が勝手に通る境なのです」


 田中は、ツゲの発言にわずかな引っかかりを覚えた。


「じゃあ……この高い城壁を超えて行かなくても、ここからは出られるんですか? 他に、出口が?」

 

 ツゲは即答した。


「出ることは可能です。それにはいくつか条件がありますが、私からの説明は遠慮させて下さい。ここは冥府ではありますが、あなた方二人はまだ再生を待つ死者として確定していない。ですから、行動が制限されないのは、この自由域に限ってのことなのです」


 黒木は口角を上げた。


「へぇ……じゃあ、好き勝手したら──」


 ツゲの瞳がわずかに濃色へ変わる。白衣の周りの空気が微かに揺れた。


「奥へ踏み込む意思を見せた瞬間、規則が適用されます。この場を乱す者は “例外” であっても許されません」


 田中が黒木に囁く。


「く、黒木さんやめましょう……ツゲさんの言い方、なんか危ないです! 嫌な予感がします」


 黒木は舌打ちしつつも一歩退いた。ツゲはまるで場が落ち着いたのを確認したかのように、再び静かな声に戻った。


「ご理解いただけましたか。では、しばしお待ちを……今、リュッサ様をお呼びします」


 その言葉と同時に、堀の水面が、ぼこり……と黒く膨れ始める。


 ぬめりを孕んだ水の団塊が持ち上がり、そこから巨大で奇妙な顔貌——シイラのように膨らんだ額。中央で分かれた長い黒髪が水面に引きずられるように頬に張り付いた女 リュッサ が堀の底から浮かび上がるように姿を現した。占い師のような薄紫の布を幾重にもまとい、瞳は色を失ったかのような灰色。身長に比して異様に長い指が、二人を品定めするように、撫でるように向けられた。


 そして、微笑む。


「これは珍しい。ようこそ……冥府に訪れた生者たちよ。私は案内役の リュッサ と申します。まずはあなたたちの “状態” を、確認しましょう」

「状態?」


 黒木はそう言ってリュッサを睨んでいた。リュッサの出現と容貌に腰を抜かした将は、何も言えず、ただ怯えるだけだった。

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