06
「カエセ……カエセェェッッ!」
カルンの低い唸りがこだまし、その怨嗟の声が縺れ、空気を震わす。
黒木は自身のジャケットに視線を落とすと、上着の裾を軽く引いて肩を回した。わずかに張った布が動きを阻んだが、そのまま肘を伸ばして袖口の返しを確認する。
(こんなもんか……まぁ、問題ないだろ)
内心で呟きながら、彼はわずかに姿勢を落とす。スーツの縫い目が、剣の初動にどう影響するのか、生地の抵抗を感じ取った。
ためらいを見せたように見えたが、すぐに身を屈め、足を滑らせるように前へ出る。剣道仕込みの立ち回りは無駄がなく、踏み込み、切り、突き——動作は流れるようだった。
最初の斬撃は素早く、カルンの身体をかすめる。刃が通る音は金属同士の擦れにも似て、軽く鋭い。次いで黒木は連続して間合いを詰め、隙を突いて鋭い突きを放った。
田中には素早いその動き——動作のつながりが追えない。駆け出したと思えば、見ているうちに構えが変わっている。目で追うのがやっとだった。
カルンは防ごうと抵抗するが、片腕では回避が間に合わない。
「キィ……ン」
金属を割って進むような、硬質な感触——黒木の突きが右眼に深く入ると、カルンの顔に鈍い閃光のような光が走り、唸りが途切れる。
「返せ返せってしつけぇ割に、急に黙りやがって……目ん玉突き刺されんのは、流石に刺激が強すぎたか?」
黒木は、刀の切っ先がカルンの右眼を貫いた手ごたえを確かに感じ取ると、さらに一度突き込んだあと、すぐに動きを止めた。刀を痛めぬよう、手首を微かに返して角度を整える。擦らせないように刺突の痕を、静かに、真っ直ぐに──まるで糸を通すような正確さで刃を引き抜くと、淡々と息を吐く。
その瞬間、カルンの姿は音もなく蜃気楼のように揺らぎ、形を保てなくなった。まるで風に吹かれて紙屑がほどけるように、輪郭が崩れ、空間の中へ溶けていく。
カルンが消えた後に残ったのは、心臓部にぶら下がっていた小さな鐘だけだった。それが地面に落ちた後、静けさが戻った。
「倒したのかよ……嘘だろ……?」
田中はその場にへたり込み、顔を両手で覆った。嗚咽が漏れ、震えが止まらない。目は虚ろで、しばらくは言葉にならない声しか出なかった。
やがて、ようやく絞り出すように「何だったんだよ……今の……」と呟き、全身を震わせたままそこに崩れ落ちた。
黒木は刀を指先で軽く撫でて刃鳴りや歪みを確かめ、刃こぼれがない事を確認して静かに鞘へ戻した。期待を膨らませていたのに、決着はあっさりとついてしまった。少し肩透かしを食らった気分で、目には未練が滲んでいたが、表情はいつもの冷淡さに戻っている。そして、カルンが立っていた場所を見下ろし、鐘を見やる。
「じじぃの胸にぶら下がってた鐘か……」
黒木は無造作にそれを拾い上げ、掌の中で回すように軽く弄び、その重さと質感を確かめる。まるで新しい玩具を見つけたかのように。
それは、ただの鐘ではなく金属とも陶器とも判断できない材質でできていた。表面には波や櫂を模したような浮き彫りの紋様が施され、小さな船が波を越えて進む姿、そしてその船の舳先に立つ渡し守の姿が刻まれている。
黒木は鐘を持ち上げ、軽く振ってみた。(……鳴らないな)
内部に振り子があるのに、微動だにしない。(どうやって固定されている?)
「……飾りか? いや——じじぃは鳴らしてたな」
試すように、もう一度。今度は力を込めて腕を振るう。冥府の風が震えた途端、抑え込まれていた鐘の空気が破裂するように——
「カラン……!」
澄んだ音が、死の空間に溶けていった。その瞬間、門の向こうで水面がざわめき、まるで呼応するように、一艘の小舟がこちらへ滑るように近づいてきた。舟には櫂が二本。誰もいないのに、まるで目に見えない何者かが漕いでいるかのように動いている。
黒木は目を細め、鐘を手にゆっくりとその舟へ向かって歩き出す。川の前。闇の縁に立つ門—— “忘却の門” は、まるで喉元のように怨嗟の声を連ねている。
将は震える手で身体を起こし、必死に叫んだ。
「黒木さん、どこ行くんですか! さっきのじぃさんが言ってたじゃないですか! 鍵を門に捧げろって……そのまま入ったら多分、記憶消されちゃいますよ!!」
黒木は足を止めず、肩越しに淡々と返す。
「は? そんなもん信じてんのか? そもそも俺に善行の記憶なんてもんはねぇんだよ。──試しにお前、潜ってみるか?」
「……無理ですよ。本当に勘弁してください。あぁ、もぅ俺、なんか死にたくなってきた……」
将の声は掠れているが、必死で訴える。ここに来た時と同じように、また投げ込まれては適わない。目は恐怖で潤んでいる。
「でももし帰れるなら、その杖? 刀? 翳してみたりすれば何か起きるんじゃ……?」と、震え混じりに畳み掛ける。
黒木は短く鼻で笑った。
「あのじじぃの言うことなんか信用できるかよ。嘘に決まってんだろ? それに、まだユースフを見つけていない」
将は喉を鳴らし、意を決したように目を見開いて叫ぶ。
「絶対何か意味があるはずですよ!」
「んな理由あるかよ」
「そんな……俺だけでも帰してください!」
「知るか。その代わり、お前にはこの鐘をくれてやる」
「そんな鐘いらないですから、門に杖を翳してください! お願いします!」
「……(いちいち面倒なヤツだな)」
黒木は鐘を田中に向けて放り投げると、門へ向かって歩きだした。田中が何か叫んだが、声が門の怨嗟にかき消され黒木には聞こえない。門の表面を形作るのは、無数の顔——いや、顔のように見える魂の残響だった。実体はなく、風のように揺らぎ、時折消えたり現れたりする。だが、そのどれもが呻き声を上げ、怨嗟の響きは絶え間なく重なり合って門を形成していた。
黒木がさらに一歩近づくと、顔たちはまるで意識を持ったかのように視線を黒木に向ける。しかし、黒木の表情には一片の動揺もなく、淡々と刀を構えた。
「あぁ……もぅ、無理だ……限界だ……」
将が小さく呟く。目を逸らし、背を丸める。
黒木は冷たい笑みを浮かべ、ひとつ、またひとつとその顔を斬り刻む。
「ギィアァァッァァァァァアアア!!」
斬られた魂は苦悶の奇声を放ちつつ、刀に吸い込まれるように消えていく。響き渡る怨嗟の連鎖はさらに強まる。
将は耐えきれず、耳を塞いで蹲る。周囲の呻きと奇声に、聴覚まで破壊されそうだった。黒木は笑みを絶やさず、次々と魂を切り刻んでいく。
「ギィアァァァッ! ギャァァァァァア!!」
「ハハハッ! 愉快愉快!!」
黒木の刀が門の魂に触れるたび、呻きと奇声はさらに高まっていく。だが、黒木は連続で斬りつける。切り裂かれた魂は、まるで霧が晴れるように消え去り、門の輪郭が徐々に薄れていく。
「チッ、もう終わりかよ……行くぞ」
黒木の落胆する声に、将は耳を塞いだまま反応を示さなかった。黒木は刀を鞘に納めた後、将の腕を掴んで一歩踏み出した。
すると、わずかに残っていた門の顔たちは最後の怨嗟を放ちながら霧散し、周囲は静けさに包まれる。黒木と将の前に、川の流れる光景が広がった。黒木は振り返り、呆然としている将の顔面を引っ叩く。
「ボーっとしてんじゃねぇ、死ぬぞ? ほら、さっさと……」
将は恐怖と冷気で精神が崩壊しつつあった。震える両手を組んで、恐る恐る黒木の後を追う。踏み込むたびに、周囲の暗闇が揺れているような気がして足がすくむ。だが黒木は一切怯まず、まるで暗黒の道を切り開くかのように、先へ先へと進んで行くのだった。




