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「黒木真也」


 そう呼ぶ声が聞こえた。ずいぶん前に聞いた、あの奇妙な声。何重にも重なった響きと、その奥で、ザーザーという拍動のような音が続いている。


 黒木は眠りの底で、ぼんやりと意識を漂わせていた。だが、その声の主と出会った場所を思い出した瞬間、意識がはっきりする。


 冥府。意識の奥で、クルーエル・イフが語りかけてきた。


「答えが出たようだな」


 黒木は小さく鼻で笑った。


「答え? 俺は質問なんて受けた覚えはないぞ」


 声は、ゆっくりと重なった。


「それは誰のためだったのか、という問いだ」


 黒木は少し考え、ああ、と呟いた。


「そういえば、そんなこと言ってたな。俺はあの時、俺のためだと答えたはずだ。澪の復讐だと」


 過去の記憶を辿った後、黒木は今の自分の考えを確かめるように、思考を巡らせる。


「だが、今は違う考えに行きついた」

「話してみるといい」


 黒木は少し間を置いた後、ゆっくりと話し出した。


「俺は、正義を振りかざしていい人間じゃなかった。危うく、無関係な人間を殺しかけて、そこでようやく気がついた。身勝手だったよ」


 しばらく沈黙が続いた後、黒木が結論を出す。


「誰のためか……それは結局のところ、誰の為にもならない。それが、俺がたどり着いた答えだ」

「……そうか」


 クルーエル・イフの短い返事を受けて、黒木は続けた。


「お前には礼を言いたいと思っていた。言ってただろ? 冥府での審判に誤診はないと。そう言い切ってくれたおかげで、俺はようやく託すことができた。澪を殺した人間への罰を」

「助けになったか」

「あぁ」


 黒木はゆっくり言った。


「獄中で何度も考えたが、結局のところ、俺がやるべきことは一つだった」




「『澪や両親がいない世界で、どう生きるか』それだけだ……あとは任せるさ」


 クルーエル・イフの声が静かに重なる。


「その通りだ。安心して任されよ」


 黒木は小さく笑った。


「ああ。感謝するよ」


 少し間があった後、クルーエル・イフが言う。


「ついでと言っては何だが、フェイブルという悪魔……お前に憑いていた奴だが」


 黒木は眉をひそめた。


「あの悪魔がどうしたんだ?」

「捕らえた。今は第九層で罰を与えている。奴は冥府の掟を破った。そして、そなたを裏切った」


 黒木は短く笑った。


「ざまぁねぇな。それも、ありがとよ」


 クルーエル・イフが言う。


「最後に一つ聞く。心して答えよ」






「もし、時間をさかのぼり、人生をやり直せるとしたら——それを望むか?」


 黒木は黙した後、苦笑する。


「おいおい、よしてくれよ。また悪魔と取引なんてごめんだ」


 クルーエル・イフは厳かに言った。


「余であれば可能だ」


 黒木は少しだけ考えて、首を振る。


「……いや、望まない。俺はもう決めたんだ。この世界で生きていくことを」


 二人の間に静かな時間が流れたあと、クルーエル・イフの声が、柔らかく響いた。


「そうか。問うまでもなかったな。それではせめて、今日は良き夢を。もう、会うことはないだろう」


 その言葉には、満足の色が混じっている。すると、クルーエル・イフの気配はゆっくりと遠ざかった。そして黒木の意識は、再び静かな眠りへと沈んでいく。微睡みの中で、黒木は思った。


 ——良き夢、か……。


 そしてまた、深く眠りについた。




***




 駅前のファストフード店は、昼過ぎの割に人が少なかった。油とコーヒーが混ざった香りが店内を包み、変わりのない日常を思わせた。


 ユースフと田中将は窓際の席に向かい合って座っていた。二人ともが揚げたてのポテトを片手に、将のスマホを見ながらどうでもいい冗談を交わす。どちらが先にドリンクを吹き出したのか分からなかったが、ただ二人は笑い、ムセ込んだ後また笑い合った。


 ガラス張りの店内越しに、横断歩道が見える。信号が変わり、人の流れが一斉に前へ進む。その中に、黒木と澪がいた。


 澪は黒木より一歩先を歩いている。日に照らされて反射する長い髪を揺らし、振り返りざまに何か言った。黒木に声は届かなかったが、口元に柔らかな弧が描かれ、わずかに上がった眉で、それが感謝を伝える言葉だと分かった。


『ありがとう』そう言った時の、澪の表情だった。


 黒木の右腕には、一冊の本が抱えられている。


 表紙には、灰色がかった青の羽を持つ鳥が写っていた。都市の隙間に生き、海と街の境界を越えて渡る鳥——イソヒヨドリ。その視線は、どこか遠くを見ている。


 二人は歩道の向こうへ消えた。店内では、ユースフが何かを言いかけ、将がそれを遮るように夢中で話し出す。紙包みが擦れる音と、トレイを片付けるプラスチックの音。


 世界は静かで穏やかだった。


 黒木は、ふと空を見上げていた。街の上に広がる淡い青。かつて二階の窓から眺めた空を何となく重ね、腕に抱えた本へと視線を落とす。小さく、満足そうに頷いた後、少し前を歩く澪の気配を確かめるように、一歩、歩みを強めた。




———END———

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