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田中の運転で、黒木は幼いころ住んでいた自宅の前に到着した。夕暮れの中、二階建ての家がひっそりと佇んでいる。白い外壁や屋根は少し色褪せていたが、庭の草はきれいに刈られていた。
長く空き家だったはずの家だが、荒れた様子はなかった。伯父が時折、手を入れてくれていたのだろう。
黒木はしばらくその家を見上げた。躊躇っているわけではない。過去と正面から向き合うだけの覚悟を持って、いまここに立つ自分が、少し誇らしく思えたからだ。ポケットから鍵を取り出す。
ガチャリ、とシリンダーが回る金属音が静かに響く。ドアを引くと、懐かしい空気が流れ出てきた気がした。
黒木はしばらく玄関に立ち尽くす。壁、靴箱、廊下。すべて記憶の中と同じ場所にあった。
田中が遠慮がちに声をかける。
「……じゃあ、自分はそろそろ」
「いや、上がっていけよ」
黒木の言葉に、田中は少し驚いた顔をする。
「後で見せたいものがある」
黒木はそう言うと廊下を進み、リビングに入る。テーブルや棚は、ほとんどそのまま残っていた。
「きれいですね」
田中が呟く。
「あぁ。ほとんど住んでいなかったが、伯父が風通しはしておいてくれたみたいだからな」
黒木は家の中を見渡し、視線はゆっくりと巡っていた。家具や壁の一つ一つに、記憶を重ねるように。どこか懐かしい匂いがした気がした。
「そろそろ上に行ってみるか」
黒木はそう言うと、田中に目配せした。二人は階段を上がる。二階の突き当たりの扉の前で足を止め、黒木は迷いなくドアノブを回した。
幼いころの黒木が過ごした部屋。カーテンが窓を覆っていて室内は暗かった。黒木は窓に歩み寄り、ゆっくりとカーテンを開けた。夕日の光が、部屋の中へ差し込む。
田中が電気のスイッチに手を伸ばす。
「電気、つけますね」
「いや……このままでいい」
その声を聞いた田中は手を止めた。黒木は窓の外を指さす。
「見せたいものってのは、この窓からの景色だ」
田中が外を見る。海岸線が一望できた。遠くに見える灯台と夕日に染まる海。水面が橙色の光を反射して揺らめいている。
「……手紙の通り、本当に美しいですね」
「あぁ」
黒木は、目を少し細め、海を見つめたまま続けた。
「俺の人生は、ここからすべてが狂った」
声が続かなくなった室内に、遠くの波音だけが届いていた。しばらくして、黒木は決意を固めるように、ゆっくりと口を開く。
「だから、ここからやり直す」
田中は海を見つめたまま頷いた。
「俺も……やり直します。もう俺、生きる意味なんてないと思ってました」
自分自身に見切りをつけたように、小さく笑い、そして続けた。
「でも、生きながら意味を探すのが人間なんでしょうね」
「俺たちは、もう取り戻せないものを抱えて生きている。それでも、人生には続きがある。その先で、何か意味を持てればいい」
二人は小さく頷く。それは、二人の決意だった。
その後、二人は近くの店で簡単に食事を済ませ、黒木の家へと戻った。田中はソファに横になり、ほどなくして眠りについた。
家の中は静まり返っていた。黒木は一人、階段を上がって自分の部屋に戻る。窓の外には夜の海が広がっていた。遠くの灯台が規則正しく明滅している。
後ろで小さな音がして、黒木は振り向いた。壁に掛けられた時計が目に入る。針はいつからか、長い時間止まっているのだろう。
三十年前のあの日から、この家の時間も、ずっと止まっていた。
黒木は窓際に立ち、窓辺から海を眺める。夜の暗い海の向こうに、水平線がかすかに浮かんでいる。
黒木は何も言わず、ただ海を見ていた。
どれくらいの時間が経っただろう。夜が薄れ始めたころ、水平線が、わずかに青みを帯びる。
「ピュルルルッ!」
澄んだ声が、静かな海に響いた。イソヒヨドリだ。黒木は空を見上げる。その声は、澪を失ったあの日の象徴だった。
鳥は海の方へ飛び立つ。水平線へ向かって。やがて、小さな影になり。そして、見えなくなった。
黒木は小さく笑い、思い出を噛みしめるようにゆっくりとベッドに身をゆだね、静かに目を瞑った。
波の音が、遠くで絶え間なく続いていた。




