32
あの日。
息子のユースフが帰らなかった、あの日から、もう九年が過ぎていた。
失踪したと思われる翌日、警察に届け出た。それからというもの、玄関の灯りを消したことはない。
その小さな家の瓦は所々欠け、古い木の床は歪んで艶を失い、襖も日に焼けている。裕福とは言えない暮らしだったが、家の中はいつも掃除が行き届いていた。息子がいつ帰ってきてもいいように。
居間の隅に、小さな食卓がある。座布団が二つ。そのテーブルの上には、今夜も二人分の夕食が並んでいた。
一つは彼女の分。もう一つは、ユースフの分。
九年間、彼女は必ず食事を二人分用意してきた。
最初の頃は、温かいまま帰りを待ち、深夜になっても帰らない夜には、そっとラップをかけて冷蔵庫にしまう。
朝が来ると、それを捨てた。
それでも、次の日の夕食はまた二人分。
ユースフは母親の料理をいつも嬉しそうに食べてくれた。
「おいしい、おいしい」と言って、子どもの頃と同じ、無邪気な顔で。
主人と別れてからというもの、ずっと二人で暮らしてきた。貧しくても、寂しいと思ったことはない。
息子がいたからだ。
ユースフは誰に似たのか、とても優秀だった。頭が良くて、誰にでも気を遣う優しい子だった。学校で忙しいはずなのに、アルバイトもして家計も助けてくれる、自慢の息子。
だが、失踪する少し前から、息子の元気が少しずつ失われていった気がしていた。
帰宅後、口数が少なくなり、食事の際もどこかぼんやりとして。
遅れてやってきた反抗期なのかもしれない。そう思うようにしていた。
心配して声をかけると、ユースフはいつも同じように答える。
「何でもないよ。大丈夫だから」
そう言って笑った。今では、その笑顔を思い出すたび胸が締め付けられる。本当は苦しんでいたはずなのに。そうでなければ、ユースフが突然いなくなるはずがない。
警察は事件の可能性をほのめかしながらも「証拠がない」と言った。やがて捜査は進展しなくなり、失踪は未解決のまま時間だけが過ぎていった。
彼女は自分で息子を探した。街角でビラを配り、SNSで呼びかけ、見知らぬ人に頭を下げた。
母親である自分が諦めるわけにはいかなかった。だが、時間が経てば経つほどに、後悔は大きく膨らんでいった。
アルバイトなんてさせなければよかった。学校で何が起きていたのか、もっと確認していればよかった。
学校は「いじめの証拠はない」と言い張り、警察もそれ以上踏み込んだことはしなかった。
そんなはずない。息子は、きっと学校で何かに苦しんでいた。そうでなければ、あの日、姿を消すはずがない。
希望と絶望の間を揺れながら、それでも彼女は生きてきた。
ユースフの部屋は、九年前とほとんど変わらない。机の上の教科書も、制服もそのままになっている。いつ帰ってきてもいいように。
誕生日も欠かさず祝った。小さなケーキにロウソクを立てて、『必ず生きている』そう信じて、毎日を生きてきた。
そして今日の夕方、玄関の呼び鈴が鳴った。
彼女は台所から顔を上げた。この時間に訪ねてくる人は珍しい。玄関の扉を開けると、見知らぬ人が立っていた。
三十ほどの男で、どこか疲れた顔をしている。男は少し躊躇ってから言った。
「……ユースフの同級生だった者です」
その言葉を聞いた瞬間、彼女はハッとして息が一瞬止まった。
“同級生”。
九年間、そんな言葉を聞いたことは、ほとんどなかったように思える。
警察でも、教師でもない。ただの同級生。
胸の奥にしまい込んで、長い間触れないようにしてきた憶測が浮かび上がる。
学校。落ち込んだ顔の息子。いじめ。
彼女は何も言い出せずしばらく黙っていたが、その後小さく頷いた。
「……どうぞ」
田中は居間に通されると、畳に正座し、頭を下げて挨拶する。
「田中将と申します。高校生の頃、ユースフさんと同じクラスでした。……実は、ユースフさんのことで、お母様に謝らなければならないことがあります」
そう切り出すと、田中はゆっくりと語り始めた。
廊下で肩がぶつかったこと。
自分が凄んだこと。
それがきっかけで、いじめが始まったこと。
暴言や使い走り。
学校に持ってきた弁当を捨てたこと。
腐った弁当や雑草を食べさせたこと。
煙草の火を消したコーヒーを飲ませたこと。
発言が重なるにつれ、部屋の空気が重く、険しいものになっていく。だが、彼女は何も言わずに聞いていた。膝の上で、手を力いっぱい握り込んで。
「……ユースフさんが失踪してしまったのは、私の責任です」
田中は申し訳なさを押し殺すように唇を結び、覚悟を決めて口を開いた。そして声を絞り出し、深く頭を下げる。
「本当に申し訳ありませんでした」
田中は震える声で続けた。
「ユースフさんじゃなくて……私がいなくなればよかったんです。……本当に、ごめんなさい」
その言葉を聞いた時、彼女の視線がゆっくりと食卓へ落ちた。そこには座布団が二つある。一つは彼女の、もう一つはユースフの場所。
彼女はその席をしばらく見つめて小さく息を吐く。
「……そうですか」
それだけだった。ただ静かに、怒りや苦痛をまったく滲ませない声で。
そして、ぽつりと言った。
「やっぱり……学校だったんですね」
田中は一瞬顔を上げたが、母親の肩が小刻みに揺れているのを感じて、再び頭を下げた。
「本当に申し訳ありません——」
「……やめてください」
田中の言葉が彼女によって遮られる。彼女はまだ空いた席を見つめながら首を振る。
「謝らないでください。私は——」
言葉を探すように、時が空く。
「まだ、あの子を待っているんです」
田中の息が止まった。
「帰ってくるかもしれませんから」
その一言は、多くの息が混じるように放たれたが、涙は流れていなかった。彼女は、ゆっくりと視線を田中に向ける。
「謝られてしまうと……あの子が、本当に帰ってこないみたいじゃないですか」
居間は静まり返った。九年間、埋まらないままの場所を、母は見つめ続けている。
田中は何も言えなかった。本当は、伝えなければならないことがあったはずなのに。
ユースフが、もうこの世にはいないことを。
だが、言葉が喉の奥で固まったまま出てこない。目の前の母親は、まだその席を見ている。まるで、そこに息子が座っているかのように。
『帰ってくるかもしれないから』
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
田中は唇を開きかけ、出かかった言葉は寸前で止まった。
言えるわけがない。九年間、母親を支え続けてきた希望を、自分の口で壊すことなんて出来なかった。
真実を告げることが、必ずしも誠実だとは限らない。それは時に、相手に容赦のない痛みを与える行為でもある。相手の感情を重んじることが出来なければ、それはただの自己満足だ。
田中は拳を握りしめ、深く頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした。本日は、これで失礼します」
それ以上、何も言えなかった。
ユースフの母親は、田中を見て小さく頷いた。
「わざわざ来てくれて、ありがとう」
その声は、どこか疲れた優しさに満ちていた。
田中は立ち上がり、玄関へと向かった。ドアを開ける直前に振り返ると、母親は居間の奥でまだ食卓を見ていた。
その光景が、深く胸に突き刺さった。
夕方の空気が、ひんやりと頬に触れた。田中の車は路地の端に停めてある。運転席に乗り込むと、黒木がちらりと視線を向けた。
「で、どうだった?」
田中は、まだ片付いていない胸の内を、整理するように少しずつ話し始めた。
「……話しました。いじめのことも……全部」
黒木は黙って聞いている。
「謝罪もできました」
田中の喉が、かすかに鳴った。
「でも……言えませんでした」
黒木はシートに寄りかかったまま、黙っている。
「ユースフが……もうこの世にいないことを」
「言えるわけ、なかった……」
黒木は何も返さない。車内に、押し潰されそうな空気が広がった。
エンジンをかけ、田中は窓の外を見た。ユースフの家が、少しずつ遠ざかっていく。
田中は呟くように言った。
「……ユースフの母親、まだ帰りを待ってるんです」
「あぁ、そうだろうな」
「俺……最後の希望まで奪う勇気はありませんでした」
しばらくして黒木が、口を開く。
「それでいいんじゃねぇか? 奪う必要なんて、ねぇよ」
車は、黒木の家に向かってゆっくりと走り出した。




