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鉄の門が、ゆっくりと開いた。重い金属音が、冬の乾いた空気に響く。
九年。
その歳月を経て、黒木は牢の外へと歩み出る。空が、驚くほど高く感じられた。刑務所の中庭から見上げる空と、外の空はまるで違う。
黒木は一度だけ深く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺を満たす。それは、久しく忘れていた自由の味だった。
刑務官が事務的な声で告げる。
「本日付で仮釈放です。規則を守り、社会復帰に努めてください」
黒木は軽く頭を下げた。九年前、裁判所で言い渡された判決が、脳裏に浮かぶ。
被告人、黒木真也。
被告は警察官という立場を利用し、一般市民を監禁、拘束した。
さらに職務上管理すべき拳銃を携帯したまま失踪し、警察組織の信用を著しく失墜させた。
よって、逮捕監禁罪、特別公務員職権濫用罪、証拠隠滅罪以上を併合し、懲役十二年に処する。
なお、被告人には深い反省が認められ、被害者が重大な傷害を負っていないこと、最終的に自ら犯行を中止していることなどを考慮する。
模範囚として過ごした黒木は、九年で仮釈放となった。門の外に、一台の車が止まっている。
黒木は目を細めた。運転席から降りてきた男は、深く頭を下げた。
「……黒木さん」
黒木は苦笑した。
「よう。大人になったじゃねぇか」
田中将だった。
高校生だった彼も、今はもう三十近くなっている。以前より落ち着いた顔つきになっていた。
「迎えに来てくれて助かった」
「当然ですよ」
田中は少しだけ言葉を詰まらせてから言った。
「……ずっと、待ってましたから」
黒木は何も言わなかった。
二人の間には、九年分の手紙があった。田中は刑務所にいる黒木へ、何度も手紙を書いた。
後悔や、憤り。どうにもならない虚しさも。
ユースフの失踪は事件として立件されない。だから、田中は裁かれていない。それが、彼には耐えられなかった。
一通の手紙の中で、田中は書いていた。
「俺は罰を受けていない。だから、何も終わっていないし、何も終わらない」
黒木はそれに返した。
「裁判所が下す判決だけが、裁きじゃない」
そして黒木は、獄中で田中に全てを書いた。
澪のこと。自分の過去。刑事になった経緯。悪魔との契約。そして、冥府を出てから、事件の夜、山で何が起きたのかを。
そして、二人の手紙のやり取りは、ある一つの約束に辿り着いた。車のドアを開けながら田中が言う。
「……行きますか」
黒木はゆっくり頷いた。
「ああ」
刑務所の塀が遠ざかっていく。黒木は窓の外を見ながら言った。
「まず、伯父に顔を出させてくれ」
「ええ」
「それから——」
黒木は言葉を止めると、田中が続けた。
「ユースフの母親の所へ」
黒木は頷いた。
『人間が犯した罪は、人間に贖罪するしかない』
手紙での約束を、二人とも忘れていなかった。田中はハンドルを握りながら、静かに話す。
「……絶対に逃げられませんし」
黒木は少しだけ笑った。
「あぁ。それもそうだったな」
遠くの空に、薄く雲が流れていた。車は冬の道路を走り続ける。まだ終わっていないことがある。それを終わらせるために、二人は前へ進む。
***
伯父の家に辿り着く頃、空はすでに夕暮れの色に染まっていた。玄関先の古びた表札を見上げ、黒木は一瞬だけ足を止める。だが何も言わず、静かに戸を叩いた。
戸を開けた伯父は、黒木の顔を見ると、しばらく言葉を失ったように立ち尽くした。そして、小さく頷いた。
「……出所、おめでとう」
その声には、安堵と、長い年月を耐えてきた重みが混じっていた。後ろに立っていた田中も、黒木に合わせて深く頭を下げる。
「はじめまして。田中と申します。真也さんには、ずっとお世話になっています」
伯父は軽く会釈を返し、二人を見比べると穏やかに言った。
「ここじゃ何だ、中に入って。お茶でも飲みながら、少し話そう」
黒木は黙って頷き、靴を脱いだ。畳の匂いが、ふと鼻をくすぐる。居間を通り過ぎ、黒木は自然と仏間へと足を向けた。仏壇の中には、三つの遺影が並んでいた。
父。母。そして、澪。
黒木は仏壇の前に立つと、ゆっくりと頭を下げた。祈るように、長く、深く。伯父の妻が、線香を差し出す。黒木はそれを受け取り、火をつけると、静かに香炉へと立てた。
細い煙が、ゆらりと立ち昇る。その煙を見つめながら、黒木はもう一度深く頭を下げた。田中も、隣に並び、慣れない手つきで線香をあげる。そして同じように、遺影へ向かって頭を下げた。
やがて黒木は仏間を出て、座敷へと移った。伯父と向かい合うように座り、背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした」
伯父は黙って聞いている。黒木は続けた。
「恩を、仇で返すようなことをしました。二人に世話になりながら……俺は、ずっと憎しみに取り憑かれていました」
視線を落とす。
「澪を殺した犯人を探すことしか考えていませんでした。……あなたたちの優しさにも、気付こうとしなかった」
その言葉には、長い年月を越えてきた重みがあった。
「獄中でずっと考えていました。俺は正義を……裁きを下していい人間じゃないと気づいたんです。自分自身がこれからどう生きていくのか。どうやって、自分らしく生きていくのか」
黒木は顔を上げた。
「すぐに達成することは無理かもしれません。ですが……少しずつ、挑戦していこうと思っています」
伯父夫婦は、じっとその言葉を聞いていたが、伯父の妻の肩が震え、涙がぽろぽろと畳に落ちる。伯父もまた、目を潤ませていた。
「……知っていたんだ」
伯父は、ゆっくりと口を開いた。
「真也君が……ずっと憎しみを抱えて生きていたことを。力になりたかった。でも、どうしていいのかわからなかった」
伯父は拳を握りしめた。
「困っていたら助けようと。そう思っていた。……真也君は努力を続けて、警察官になった」
涙が頬を伝う。
「立派に仕事をしていた。逆境をバネにしていると思ったんだ。言い訳に聞こえるかもしれんが……だから、余計に、口を出せなかった」
伯父の妻も、涙を拭いながら言った。
「澪ちゃんが亡くなって……そのあとすぐに、ご両親まで亡くされて……」
言葉が詰まる。
「本当に辛かったでしょう。真也君をあの時なぜ抱きしめてあげなかったんだろう。なんでずっとそばに居てあげなかったんだろうって、ずっと後悔していました」
伯父は目を閉じた。
「親になりきれなかった。……私たち二人は、それがずっと悔してたまらなく、情けなかった」
伯父夫婦は、深く頭を下げた。
「真也君、本当にすまなかった」
黒木は何も言わず、ただじっと手の甲を見つめていた。
そしてぽつり、と。一筋の涙がこぼれた。
それからしばらくして、二人は伯父の家を後にすることになった。玄関先で、伯父が黒木を呼び止めた。
「……真也君」
伯父はポケットから、古びた鍵を取り出した。
「これを。もう、君の家だよ。退所前に、住居は私の管理する実家と届け出てある」
伯父は申し訳なさそうに言った。
「時々、掃除には入っていたんだ。問題なく使えればいいんだが……」
少し間があった後、
「……本当に大丈夫なのか?」
黒木は鍵を見つめる。短い間だったが、家族四人で過ごした家。家族で食卓を囲んだ家。そして、すべてを失ったあとも、記憶だけが残り続けている場所。
そして、澪の死を知り、絶望に沈んだ両親が、静かに命を絶った家でもある。笑い声も、嗚咽も、苦しみも、すべてが残っている。
生と死が、同じ屋根の下に積み重なった場所。それでもなお、真也にとっては帰るべき場所だった。
真也は鍵を受け取った。手の中で、ひんやりと冷たい。だが、刑務所の鉄格子の鍵とは違う、過去と向き合うための鍵だった。
だからこそ、黒木は刑務所を出る前に、あの家に住ませてほしいと頼んでいたのだ。黒木は鍵を握りしめて、ゆっくりと頷いた。
「大丈夫です。あの家で……頑張ってやってみます」
その言葉には、揺るぎない決意があった。伯父はしばらく真也を見つめ、やがて小さく、力強く頷いた。
家を出て、暗くなり始めた道を歩きながら黒木はふっと笑った。どこか、肩の力が抜けたような表情だった。
「……じゃあ、次は将の番だな」
その言葉に、田中の背筋がぴんと伸びた。緊張した面持ちで、拳を握る。
「はい。ずっと、この時を待っていましたから」
黒木は頷き、二人は並んで車に向かって歩き出した。行先は、もう一か所。ユースフの母のもとへ。




