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田中将は、すでに警察での事情聴取を終えていた。市立中央病院での治療を終え、退院してから数日後。警察署の取調室で、彼は自分が知っていることをすべて話していた。
そして、黒木刑事逮捕の知らせを聞いたとき、田中は言葉を失った。正式な判決が出るまでは「被疑者」として身柄を拘束される。それが警察の説明だった。
冥府で共に過ごした人間が、今は留置場の中にいる。その事実が、田中の胸に重くのしかかった。
退院後、田中は高校へ戻った。
講義。課題。模試。
何もかも以前と変わらないはずなのに、空虚で、どこか遠い世界の話のように感じられる。それは、まだ自身が成すべきことを果たしていない証でもあった。
そして、彼の中で一つの決意が固まっていた。
ユースフの家族に、謝罪しなければならない。
田中は、かつての仲間たちに声をかけた。廃ビルで、一緒になってユースフを取り囲んでいた連中。だが返ってきた答えは、どれも同じだった。
「は? 俺関係ないだろ」
「将が主犯じゃん? 俺便乗しただけだし」
「今テスト期間なんだけど……お前に付き合ってる時間ねぇわ」
会話は一方的に切られ、メッセージも既読が付くだけだった。
教室で、田中は静かに審魂の瞳を開く。焦点がぼやけ、視界が僅かに歪み、彼らの魂が色として浮かび上がる。
どいつもこいつも濁っていた。澱のようなものが沈殿し、かつての自分と同じ灰色や黒をベースに、薄汚い青や緑色をしている。
田中はゆっくり息を吐いた。
(……もういいか)
彼らを追及するのは、もうやめた。いずれ彼らは裁かれる。絶対に逃れようのない冥府で。
数日後、田中は警察署を訪れていた。応対したのは、田中に事情聴取を行った捜査員の一人だった。
「ユースフの母親に……謝罪したいんです」
田中は頭を下げて頼み込んだが、刑事は少しだけ困った顔をした。
「気持ちはすごくよく分かる。立派だと思うよ」
そう言ってから、言葉を選ぶように続けた。
「ただ、田中くんには悪いが、警察が謝罪の場を作ることはできないんだ」
「……そう、ですか」
「それに、突然会いに行くのは逆効果になる可能性もあるんだ。今は行方不明扱いだし、ご家族の気持ちもあるから……」
ユースフは、死亡していない。それが警察の見解だった。
「こういう問題は、本来は学校が対応するものだから、担当の教員に相談してみたらいいと思うよ」
田中は自分の考えとの乖離に戸惑い、しばらく黙っていたが、やがて深く頭を下げ、捜査員に礼を告げた。
「……分かりました。ご迷惑をおかけしてすいません。ありがとうございました」
警察署を出る。夕方の空気は、まだ蒸し暑かった。田中は空を見上げた。わずかに覗く空を取り囲む雲は厚く、逃げ場を塞ぐようにゆっくりと形を変えていた。
***
田中は昼休みが終わる直前、職員室の扉を叩いた。
「失礼します」
担任が机から顔を上げた。
「どうした、田中。珍しいな」
田中はしばらく言葉を探したが、やがて覚悟を決めたように口を開いた。
「先生に、報告と相談があります。ユースフのことです」
「……」
担任は眉を寄せ、表情がわずかに固くなる。職員室の空気がわずかに止まったが、田中は構わず続けた。
「お時間頂けますか?」
「……放課後、進路指導室で待っていなさい」
***
進路指導室は、校舎の端にある小さな倉庫のような部屋だった。窓からはグラウンド見え、夕方の光が地面を照らしている。
田中は、壁際のパイプ椅子に腰掛けていた。書類棚には進路資料のファイルがいくつも積まれ、大学案内の冊子が整然と並んでいる。どれも、今の自分には無関係なもののように思えた。
廊下の向こうから、部活動の掛け声が聞こえてくる。ボールを打つ乾いた音。遠くで女子達の笑い声が響く。
世界は何事もないように動いていた。自分を除いて。
田中は両手を握って膝の上に置き、じっと床を見つめていた。胸の奥で、閊えている重みと向き合う。
逃げようと思えば、いくらでも逃げられた。ユースフが死んだ今、証拠は何一つない。何も言わずに、時間が過ぎるのを待つこともできた。
だが、それではいけないと思った。自分がやったことだ。だから、きちんと話す。それだけはと心に決めていた。
廊下の前で足音が止まり、扉を叩く音がする。
「田中、いるか」
「……はい」
田中が答えると、ドアが静かに開いた。担任は書類の挟まったクリアファイルを片手に持ち、部屋へ入ってきた。いつもの落ち着いた表情だったが、どこか慎重に言葉を選んでいるようにも見えた。
「待たせてしまったな」
担任はそう言って扉を閉めると、机の向こうの椅子に腰を下ろした。
「……それで、報告があると言っていたな」
「はい。実は……」
田中はユースフとの過去について、言葉を重ねる。きっかけは、廊下で肩がぶつかったことだった。
その日、腹いせのようにユースフの机へ落書きをした。それからエスカレートした。
片言の日本語を真似て笑い者にした。
アルバイトをしていると知ると、用事を言いつけて利用した。
体臭が臭いと馬鹿にして、「お前の食っているものが悪いんだろう」と、弁当を捨てた。
しばらくしてそれにも飽き、草や腐った弁当を食べさせた。
一つずつ、思い出す限りを淡々と話した。言い訳はしない。すべて、自分がやったことだから。
担任は途中で何度か口を挟もうとしたようだったが、結局そのまま最後まで黙って聞いていた。話が終わると、担任は椅子から立ち上がった。
「……わかった。少し待っていなさい」
そう言い残して、進路指導室を出た。
数分後、担任は学年主任を連れて戻ってきた。主任は腕を組み、田中を値踏みするように見た。
「もう一度、同じ話をしてくれるか」
田中は頷き、再び話し始めた。同じことを、できるだけ同じ順番で。
途中で声が詰まりそうになったが、それでも言葉を止めなかった。
すべて話し終えると、しばらく沈黙が続いた。やがて学年主任が小さくため息をつき、口を開いた。だがその声は、どこか距離を置いたものだった。
「……話は分かった。ただ、今の段階でそれが “いじめ” だったと断定することはできない」
田中は驚いて顔を上げた。
「まずは事実関係を確認する必要がある。それに、君のことについて、学校にはいろいろな話が届いている」
田中の胸が、わずかに強張る。
「警察の件も含めてだ」
「だから、君の話だけで判断するわけにはいかない。慎重に調べる」
田中は責められると思っていた。叱られると思っていた。
どんな処分でも、受ける覚悟が出来ていた。それなのに、学年主任は淡々とした口調で、叱責も、怒りもしなかった。返ってきたのは、曖昧な言葉だけ。
「……わかりました。聞いていただき、ありがとうございました」
田中は深く頭を下げて進路指導室を出ると、廊下は放課後のざわめきに満ちていた。
田中はしばらく廊下を歩いた後、階段の踊り場で立ち止まった。胸の奥に、行き場のない空白が広がっていた。
自分が覚悟して語ったはずのものは、どこにも受け止められなかった。




