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黒木はプリウスのシートを倒して横になり、エアコンを効かせて連絡を待っていた。時刻が午後四時五十分を回った頃、その端末に反応があった。約束より少し早い。期待して電話を取る。
「見つかったぜ。酒屋のオヤジ——蔵森亘一の居場所もばっちりだ」
黒木の口元が、悪魔じみた弧を描いた。
「あぁ、それで場所は?」
「まぁ聞けって。順番にいくぞ」
紙をめくる音が聞こえる。
「まず登記関係から当たった。二十年前、精神疾患で長期通院。病名や具体的な治療については分からなかったが、そこから酒屋の営業が実質困難になってる」
黒木は黙って聞く。
「借金を重ねながら店を回してたみたいだが、家庭内暴力で嫁さんと離縁。娘は母親側に引き取られた。その後、自己破産。店舗兼住宅は競売。債務整理に充当」
淡々とした報告が続く。
「今は生活保護を受けてて、市営住宅で独り暮らしだ」
「住所は?」
「東雲町三丁目十二番地七 東雲第二市営住宅 四〇五号室」
「少し距離があるな……まぁいい」
黒木は視線を窓の外へ向けた。
「助かった。礼はまたいずれ」
「おい! 絶対だからな? 忘れたなんて言うのは許さないぞ」
「あぁ、分かってる。じゃあな」
通話を終えると、フェイブルの笑い声が頭に響く。
『キャハハハッ! 暴力と喪失! 哀れだな』
「哀れだろうが関係ねぇ。俺は俺の手で、あの野郎を地獄へ引き摺り下ろしてやるだけだ」
***
シルバーのプリウスが、住宅街へ入り込む。到着まで約三十分かかったが、ナビの案内が止まり、黒木は前方を見上げた。
東雲第二市営住宅。
古いコンクリート造りの建物は六階建てで、くすんだ外壁が暮れかけた空の色を映している。同じような棟が三つ並んだ団地型の配置で、多くの窓から薄明かりが漏れていた。
敷地中央には小さな公園もあった。錆びたブランコと、背の低い滑り台。街灯の数は少なく、照度は低い。
人通りはほとんどなかった。黒木は車を回し、ゆっくりと周囲を観察する。
正面の管理棟。出入口に一基の防犯カメラ。一階の部屋番号。裏手に駐輪場。非常階段——死角は多い。
来客用駐車スペースは三台分あり、一台分空いていたが、黒木は街灯の影に車を入れ、エンジンを切って建物を見上げる。蔵森の部屋がどこなのか、予想は簡単についた。
東側、四〇五号室——明かりがついている。在宅を確認。ほとんどの部屋のカーテンが閉められており、周囲に人影もない。行動を起こすには、好機だった。
帽子を目深にかぶり、マスクと作業用手袋に加え、助手席に置いてあったボストンバッグから、小さなウエストポーチを取り出して腰に着けた。
胸の奥で鼓動が荒れる。だが、黒木はそれをねじ伏せた。もう少しの辛抱だ。そう自分に言い聞かせる。
『キャハハハハッ! いよいよだ!』
黒木は焦らず、正面玄関を避けて非常階段に向かう。古い集合住宅特有の開放構造は、エントランスを通らずに各階へ上がることが出来る。
足音を殺して階段を上る。だが、踏み出すたびにカンカンと乾いた金属音が鳴った。
四階。外廊下はコンクリート打ちっぱなしで足音が響きやすい。人影がない事を確認して、慎重に進む。
四〇五号室の前。白いプレートに黒い文字。
【 蔵 森 】
表札は古び、長年風雨にさらされた色をしていた。室内からテレビの音が微かに漏れている。
フェイブルが甲高い声で黒木をまくし立てる。
『殺りたくてウズウズしてきただろ! キャハハハハッ』
「生き延びてきたツケを、清算させる時だ。利子は、痛みで払わせてやる」
ドアノブに視線を落とした後、黒木の指がチャイムの前で一瞬止まる。ボタンに指先をあてがうように沿わせた後、力を込める。カチッ、と小さな抵抗があった。
「ピンポーン」
電子音が鳴る。だが黒木の指先は、まだボタンの上にあった。押し込んだまま、ドアの奥を睨みつけるように中の様子を伺う。
返事はなかった。だが、室内の奥から、そろそろとドアへ近づいてくる気配がした。床板を踏む軋みと、手で壁を伝う音。
黒木はボタンから指を離すと、のぞき窓の真正面を避けるように斜に立ち、肩の力を抜いた。
「はい」
ドア越しに、低い声が返ってきた。黒木はすぐさま返答する。
「郵便物のお届けに参りました」
抑揚を削ぎ落とした、どこにでもいる配達員の声。
すると、内側で金属の擦れる音がした。
ガチャッ。
黒木は浅い呼吸を保ったまま、ドアが完全に開かれるのを待つ。
ドアの先に立っていたのは、白髪まみれの蔵森亘一だった。
黒木がフェイブルに見せられた男とは、まるで別人。ふてぶてしく笑っていた男の面影はなく、頬は削げ落ち、肌は土気色にくすみ、深い皺が刻まれている。だが、本人に間違いはなかった。
黒木は滑り込むようにして踏み込み、間合いを詰めた。左手が蔵森の口を塞ぐ。右手は、抵抗してきた蔵森の左腕を取る。左手首を捻り上げ、そのまま背後へ回り込んだ。悲鳴が黒木の手の奥で反響した。
体重を預けるように奥へ押し込むと同時に、踵でドアを閉める。
ガッ、ガッチャッ。
蔵森の体勢が崩れる。黒木は右肩を支点にして重心を落とし、壁へ押し付けた。
「静かにしろ」
耳元で低く言い放つ。
抵抗する力が抜けた瞬間、腕の関節を一気に固定する。制圧には、十秒もかからなかった。
「蔵森亘一だな? でめぇはもう終わりだ」
黒木は押さえつけた蔵森を、音を立てないようにそのまま床へ引き摺り倒した。蔵森は必死に身体を捩り、脚をばたつかせる。喉の奥から押し潰されたような声が漏れた。
黒木は脚で両腕を踏み制し、動きを封じる。ウエストポーチから黒いガムテープを引き抜くと、黒木はそのまま口元へ押し当てた。
「ンーーッ!」
蔵森は顔を左右に振り、必死に逃れようとする。テープが頬に擦れ、粘着面が皮膚を引き攣らせる。鼻息が荒く噴き出し、湿った呼吸が黒木の手袋にかかる。それでも黒木は力任せに巻き付ける。
一重、二重、三重。声が漏れぬように、剥がれぬように、幾重にも。
巻き終えた後、蔵森の呼吸はさらに荒くなる。鼻から短く鋭い息が断続的に漏れ、胸郭が激しく上下する。
黒木は構わず結束バンドを取り出した。両手首と両足首にぴたりと沿わせ、躊躇なく締め上げる。
蔵森が、拘束された足を床に打ちつけるように暴れ出す。フローリングが軋み、ゴンゴンと鈍い衝撃音が室内に響いた。ガムテープ越しに、声にならない悲鳴をあげる。
「ンッ、ンンーーッ!」
黒木は即座に体重をかけ直し、肩口を強く押さえつけた。顔をぐっと近づけ、低くい声で囁く。
「動くんじゃねぇ。今すぐ、殺してやろうか?」
その言葉で、蔵森の抵抗が止まった。だが恐怖で制御を失った身体は、なおも小刻みに震え続けていた。
「日が暮れたら車で移動する。それまで大人しくしてろ。騒げば殺す」
蔵森は拘束されたまま、荒い鼻息だけを繰り返していた。目は大きく見開かれ、理解が追いつかないという混乱と、剥き出しの恐怖が、その視線を凍り付かせていた。
(——なぜ? なぜ私なんだ?)
その時、下階の三〇五号室。
夕飯の支度をしていた女が、包丁の手を止める。上から、何かが叩きつけられるような物音が聞こえたからだ。
トントン、と刻んでいたリズムを止め、耳を澄ます。
「……」
だが、続く物音はしなかった。換気扇が風を送る音と、コトコトと煮物の沸く小さな音だけが台所に反響する。
「……?」
首をわずかに傾げる。気のせいか、と小さく息を吐くと、再び包丁を握った。トントン、と小気味よい音が戻る。
上階では、押し殺された呻きと、殺意が部屋を満たしていた。




