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 受話器の向こう、呼び出し音が三回目で途切れた。


「……誰だ?」

「俺だ。黒木」

「何だお前か。それで、この番号は?」

「番号なんてなんでもいいだろ? 今は取り込み中でな。一々詮索しないでくれ。それで、一つ頼みがあるんだが」

「また面倒事かよ」

「あぁ、メモの準備はいいか?」

「チッ! あぁじゃねぇよ! 俺に断る権利はないのか?」

「頼むよ。酒屋の調査だ。蔵森酒店。今、更地になってる。所有権の移転、競売と販売免許廃止の有無。それと、店主の精神科への入院歴があるかどうか調べてくれないか?」

「あーあの酒屋か……ん? 待て待て、つまり、詐欺とか詐取とか強制排除の線を追っているのか? 蔵森酒店の? お前が動けない理由と何か関係があるのか?」

「ある」

「違法なことはできんぞ」

「合法の範囲で構わん。ゴールは蔵森酒店のオヤジの居場所だ。足跡を追うのはプロセスとしてでいい」


 受話器の向こうから、ボゥッという音が響いて、煙草に火をつけたのが分かった。


「三日くれ」

「一日だ」

「……何!? いったい何があった?」


 黒木は答えない。


「詮索するなって事ね。分かったよ。明日十七時迄で可能な範囲なら。まずは登記から当たってみる」

「助かる」

「借りは高くつくぞ、黒木」

「あぁ、よろしく頼む」




***




 救急搬送から三十分後。市立中央病院・救命救急センター。


 田中将はストレッチャーで処置室へ運び込まれた。顔面と両前腕、下腿部に発赤と水疱。医師が迅速に評価する。


「熱傷は二度が主体。範囲は約20%未満」


 看護師が衣服を除去し、創部を生理食塩水で洗浄する。皮膚の一部がただれ、水疱が破れている。


「脱水傾向。血圧やや低下」

「乳酸リンゲルね。末梢20G確保して」

「前腕から末梢にかけての皮膚が酷いね。上腕で確保します」


 静脈の血管が確保され、留置針が刺入された左上腕に、透明な輸液が落ち始める。


「抗菌薬、セフェム系で落としといて」


 心電図とSpO₂モニターが規則的な波形を生む。田中は薄く目を開いた。


「……」

「田中さん、わかりますか?」


 看護師が意識レベル評価の為声をかけると、虚ろだった田中の視点が定まり、コクリと小さく頷いた。


「感染に注意が必要だからね。創部はデブリードマン後、軟膏処置で」

 

 医師の手際のよい処置によって、壊死組織が丁寧に除去される。ガーゼが巻かれ、包帯で固定。


「気道熱傷の所見なし。バイタル、SpO₂ともに安定。ひとまずICUで経過観察して、異常がなければ病棟へ上がりましょうか?」


 数時間後、意識レベルや循環動態は安定。形成外科へ転棟予定となった。




 夕刻、ICUのガラス越しに、市立中央病院の自動ドアが勢いよく開いた。


「田中将の母ですが……!」


 受付の事務職員が顔を上げる。息を切らした五十代半ばの女性。髪は乱れ、支度もままならぬまま駆けつけた様子だった。


「田中将様ですね。確認いたします。……現在、こちらで経過観察中です」

「命に別状は……!?」

「今、担当の者をお呼びしておりますので、少々お待ちください」


 ナースステーション内で、田中将の家族が見えたと情報を共有する職員たちの様子があった。ひとりの看護師が、PHSで担当の医師に連絡している。しばらくすると、眼鏡をかけた背の高い男性医師が、将の母の前に訪れた。


「田中様でよろしいでしょうか? 私、担当医師の村田と申します。将さんの状態についてご説明させていただいても?」

「えぇ。お願いします」

「将さんはこちらに運ばれた時点では、もうろうとしている状態でしたが、現在は意識も回復し、状態は安定しています。ただ、顔面と四肢に熱傷があり、感染予防と脱水の是正のため輸液管理中です。一番心配していた気道熱傷は見られなかったので、呼吸状態は安定しています」

「あぁ良かった! 先生ありがとうございます! でも、やけどなんてどうして?」

「原因については、まだはっきりと分かっていないんです。これから警察の方も交えて聴取があるみたいですね……ご面会なされますか?」

「警察!? うちの子がいったい何を!?」


 母親は両手で口を押さえた。だが、戸惑いを浮かべた医師の表情を見て、気を取り直す。


「いえ、失礼しました……面会させて下さい」




 ベッドに横たわる息子の姿が見える。包帯に巻かれた腕。頬に貼られたガーゼ。スタンドからぶら下がった点滴の数々。規則的なモニター音。

 

 それは生きているはずなのに、母親からは、将の存在がどこか遠くに感じられた。力が抜け、膝から崩れ落ちる。


「将……どうして……どうしてこんな……」


 背後に立つ警察官が静かに頭を下げる。


「現在、詳しい状況を確認中です」


 やがてICUで担当していた医師の村田から引き継がれた、形成外科医が病室を訪れた。白髪を軽く撫でながら、柔和な表情で話しかける。


「お母様ですね。形成外科医の森川です。将さんの治療内容と今後についてお話をさせて頂ければと思うのですが、今お時間よろしいでしょうか?」

「はい。大丈夫です」

「まず、熱傷についてですが、浅達性二度が中心で、範囲も10%ほどです。命に関わる状態ではありません。ただ、損傷した皮膚から細菌などが入り込み、感染症が心配されるところです。数日間は感染管理が重要になります」

「顔は……跡は残りますか……?」


 母親の問いは切実だった。医師は慎重に言葉を選ぶ。


「現時点では植皮の必要はありません。適切に管理すれば、やけどの痕——瘢痕は最小限に抑えられる見込みです。傷が残らないように、傷の経過を見させていただきながら、軟膏の選択と必要な処置を行っていきます。採血結果も目立って悪いところはありませんでしたので、食事も夕から召し上がっても大丈夫ですよ」


 母親は何度も頷きながら、説明を聞いていた。安心と恐怖で、涙が頬を伝う。


「本当、無茶ばっかり……」




 ICUの外では、警察官二人が顔を合わせていた。


「黒木の件、どう思う?」

「まだ何も分からん。ただ——」


 視線が、病室へ向く。


「田中からの事情聴取で、全てが繋がる気がする」




***




 意識を取り戻した田中は、自身の置かれている状況について整理し始めていた。廃ビルでの意識消失から救急搬送、検査と治療の経緯と、母の到着。そして警察の動き。痛みで、体を動かすことは難しかったが、耳はよく聞こえていた。


 天井を見つめながら、何を、どう説明すべきか考える。脳裏に浮かぶのは、冥府での出来事。そして、これから自分が成すべきこと。


「信じてもらえなくてもいい。時間がかかるかもしれないけど、もう、ごまかすのはやめよう」




***




 形成外科病棟の廊下は特有の静けさに包まれ、モニターの音と看護師の話声が、微かに廊下に響いていた。薬品の匂いなのか、リネンや汚物処理の消毒液なのか、判然としない匂いが漂っている。


 田中 将様 と入口に書かれた病室の扉を、二度、控えめに叩く音がした。


「警察署の者です。失礼します」


 ゆっくりと、静かに扉が開き、紺のスーツ姿の男が二人、室内に入る。胸元の警察手帳が、蛍光灯の光を鈍く反射している。


 横たわる将は、ベッドの背を上げて、体を少し起こしていた。顔面と両腕にはガーゼと被覆材が巻かれ、ところどころに赤黒い染みが透けて見える。点滴スタンドから伸びるラインの先が左腕に向かって延び、ポンプによって輸液が送り込まれている。


 その傍らに、母親が椅子を引き寄せて座っている。目の下には、薄くない隈が見られ、疲労が伺えた。


「高遠と申します。本日は事情をお伺いに参りました。ご協力をお願いいたします。主治医の先生から、短時間であれば問題ないと許可をいただいております」


 年長の警察官が、警察手帳を見せながら、穏やかな声で言った。


「ただし、ご体調が優れない場合はすぐに中止しますのでおっしゃってください」


 将は小さく頷いた。


 若い警察官が、視線を母親へと移す。


「お母様が同席されていますが、将さん。お母様がご一緒でも、問題なくお話しできますか?」


 一瞬、室内が張りつめた後、母親が口を開く。


「やっぱり、ちょっと待ってください。今はやめてください。こんな時に事情聴取なんて……この子、まだ」


 母親が話している最中だったが、将はゆっくりと息を吸い、痛みに耐えるようにまぶたを閉じたあと、目を開いた。


「大丈夫だよ母さん。俺からも、話さなきゃならないことがあるから。早い方がいい。……俺なら、大丈夫だから」


 母親は将の顔を見つめる。ガーゼと包帯の隙間から覗く息子の目は、確かな意志を宿していた。


「……それなら」


 母は警察官に向き直る。


「私も一緒に聞かせてください。何があったのか、私も聞きたいです」


 二人の警察官は、わずかに視線を交わした。証拠隠滅や口裏合わせを疑う状況ではない。被疑者ではなく、明らかに巻き込まれた側。


 年長の高遠が、発言の責任を取るとでもいうように、一歩前に出る。


「承知しました。ただし、今回は短時間で重要な点だけをお伺いします。詳細は、体調の回復を待ってから改めて事情聴取を行う予定です」


 母親はゆっくりと頷いた。

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