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 午前八時。警察署当直室。壁時計の針が、休みなく音を刻んでいる。当直警部補の佐伯が、腕時計と照らし合わせる。


「……刑事課の黒木さん、まだ戻ってませんよね?」


 隣の巡査部長が書類を確認する。


「はい。昨夜の外勤から未帰署です。拳銃携帯中。無線応答なし」


 紙を捲る音が室内に響いた後、二人の動きが止まった。


「副署長に上げますか」


 佐伯は小さくため息を吐いた。


「……あぁ。報告だ」




 数分後、副署長室のドアが開く。


「あいつか! また単独行動とは勝手ばかりしよって! 朝から面倒事ばかり!!」


 副署長の坂上が苛立ちを隠さず言う。


「おっしゃる通りです。申し訳ありません。直接ご連絡されますか?」

「お前が今すぐ連絡しろ!! あいつ――黒木につけていたヤツがいただろ……加藤だ! あいつは何をしている!?」

「加藤は体調不良で非番だったそうです。申し訳ありません」

「全くどうしようもない連中だな」


 佐伯のスマホの向こうで、呼び出し音は鳴らなかった。機械的なアナウンスが告げる。「おかけになった電話は、電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため、かかりません」


 佐伯はもう一度通話ボタンをタップするが、同様だった。


「……出んのか?」

「はい。電源も入っていないようです」

「今までそんなことはなかっただろう?」

「はい。少なくとも携帯の電源は入っていました」


 副署長の表情が変わる。黒木が単独行動を好み、身勝手な性格であることは副署長も察していた。ただ、捜査中事件に巻き込まれた可能性も否定できない。


「何かあったのか……?」


 ざわつく署内。当直が状況を整理する。


「黒木刑事は昨夜、長谷川ユースフ・アミンの捜索で旧高木ビルを確認中。二十三時三十分に署を出てから、一度も連絡はありません」


 副署長が即断する。


「よし、それなら現場確認だ。直近のパトロール車両に向かわせろ」




 無線が入る——『こちら本署。当直より指示。旧高木ビルにおいて刑事課、黒木巡査部長と連絡不能。拳銃携帯中。現場状況確認せよ。至急』


『了解。本署。現場向かいます』


 パトカーがサイレンを鳴らさず走り出す。車内では、二人の警察官が怪訝な表情で顔を見合わせる。


「黒木巡査部長ですか」

「あぁ、無線が切れてるらしい。携帯も不通だとさ。また無茶したんじゃないのか?」

「またって? 以前も何かあったんです?」


 先輩の警察官は、苦い表情で答えた。


「取り調べで相手と揉めたことがあってな。手が出たらしい。表沙汰にはならなかったが……」

「暴力沙汰、ですか……」

「他にも色々あったみたいだが、俺が直接知っているのはそれだけだ。今の時代、それじゃいかんよな」


 しばらく黙って運転していた先輩警察官が、ふと思い出したように言った。


「知ってるか? 暴力ってのは癖になるんだよ」

「癖、ですか?」

「そう。例えばさ、誰かを怒鳴りつけたり、きつく叱ったりすると……ちょっとスカッとするだろ?」


 新人は苦笑いを浮かべる。

 

「まぁ……分からなくはないです」

「だろ? あれな、脳の報酬系が刺激されるらしいんだ。こっからは持論だけど、そういうのを職業柄、使う場面が多いと……脳がそれを求めちまう」

「そんなもんなんですかね?」

「格闘技やってる奴にも多いって聞くぞ。殴り合う高揚感ってやつだな」

「へぇ……」

「それでだ、人間の理性ってのは前頭前野ってとこが司ってるらしい。だからムカついて頭にきたときは、冷静になる為に少し時間を置く必要がある」

「時間って、どのくらいですか?」

「よく言うだろ? 六秒我慢しろって」

「あぁ、アンガーマネジメントってやつですね」

「そうそう。怒りの感情は、先に別の部分が興奮しちまうらしいんだ。だから理性が追いつく前に、手が出るやつが居る。まぁ、ガキがションベン漏らすのと大差ないな」


 そう言いながら、ハンドルを軽く叩いた。


「黒木さんも……そっちのスイッチが早い人なんだろうよ」


 新人はフロントガラスの向こうを見つめながら、小さくつぶやいた。


「もうすぐ、現着ですね」




 旧高木ビル。その、取り壊し予定の廃ビルに、ひと気はなかった。パトカーを停め、二人は慎重に内部へ入り、階段を上がる。


「黒木刑事ー!」


 返事はない。しかしそこで、倒れている人を発見する。


「……おい! 誰か倒れてる!」


 駆け寄ると、全身傷だらけの若い男性だった。衣服は破れ、顔面には火傷のような痕。


「おい! 大丈夫か!?」

「分かったら返事をしろ!」


 声に応じてうっすらと目が開くが、焦点が合わない。


「く……ろ……き……さ……」


 言葉にならない。意識が混濁している状況だった。すぐに無線で告げる。


『本署、応答願います。旧高木ビル上階にて負傷者を発見。若い男性です。呼びかけで開眼しますが、発語不明瞭。意識が混濁している状態と思われます。顔や腕に広範囲の火傷を負っている模様。呼吸も促拍しています。救急要請願います』

『本署了解。現在救急手配中。黒木巡査部長の所在は?』


 二人は周囲を見渡し、状況確認を続ける。


『黒木巡査部長の姿は、確認できません』


 その報告は、署内に緊張を走らせた。副署長が指示を飛ばす。


「……男性は保護。搬送後、事情聴取の準備をしろ! 同時に、黒木の捜索を開始する。拳銃携帯中だ。慎重に動け」


 署内が重い空気に包まれた。単なる未帰署ではなく、現場での負傷者発見。さらに、刑事が行方不明のまま。当直明けで帰宅予定だった佐伯警部補は、重大事件の発生を想起して、帰るのはいったい何時になるのだろうと、大きくため息を吐いた。




***




 四之宮のワゴン車は、表通りを外れ、雑居ビルの並ぶ一角へと入り込んだ。


「ひとまず、中へどうぞ!」


 黒木は無言で頷く。道中、黒木はこれまでの経緯を簡潔に話していた。ユースフの捜索。廃ビルでの出来事。異形への発砲。そして、自分が署に戻れない状況にあること。


 四之宮は余計な相槌を打たなかった。話を遮らず、傾聴の姿勢をとっていた。


「足がつかねぇ車があったら売ってくれ。金は払う」


 四之宮の視線が、わずかに鋭くなる。


「……車ですか。ちょっと待って下さいね」


 スマホを取り出し、通話を始めた。


「急な頼みで悪いんだが、今すぐ動かせるやつあるか? ……そうだ。……あぁ、軽い方がいい。……そうだな。色は地味で。……今日中! ……おう!それで良い。今から取りに行く」


 直接的な言葉は使わないが、相手も察している。四之宮は通話を切って、振り返って黒木に告げた。


「お渡しできます! シルバーのプリウスですけど、いいですよね?」

「あぁ。目立たねぇし、うってつけだろう。それで構わん」


 事務所に着くと、黒木は後部座席に置いていたボストンバッグを開いた。束ねられた札束、三百万円を無造作に机へ置く。


「これで足りるか?」


 四之宮は一瞬だけ目を細め、すぐに表情を戻す。


「十分ですよ。ありがとうございます」


 四之宮は、手際よくバッグへ詰めると事務所の奥へ声をかけた。奥から二十代前半と思しき、短髪の若い男が顔を出す。


「おい! 今から車取りに行くから、一緒に来い」

「はい」


 四之宮は黒木に向き直る。


「昼間なんで、俺たち以外誰もいませんから、ゆっくりしていてください。準備でき次第、お渡ししますんで」


 そう言うと、若い男を連れて事務所を出た。ドアが閉まり、静まり返った室内で、黒木はソファに深く腰掛ける。エアコンと扇風機の風を送る音が、うるさいぐらいに響いていた。


 もう後戻りはできない。




 車中で、若い男が四之宮に不安な表情で話しかける。


「四之宮さん、黒木刑事って、その……」

「お? アニキがなんだ? ビビッちまったのか? とりあえず車を届けて、早いとこ帰ってもらおう。目つきも、言動も、完全にイッちまってる……シャブは食ってないと思ったんだけどなぁ。ありゃ、もう終わりだ」

「ですよね……完全にキマッてるように見えました」

「あぁ。だからよ、さっさと済ませちまおう。帰りは俺がプリウスに乗るから、お前はこれに乗ってついてこい。で、いつもの場所に停めとけ」

「はい」




***




 昼の港は、海と空という生命の気配に包まれながら、その只中に無機質な機械の輪郭をくっきりと浮かび上がらせている。錆びたコンテナの赤に、白くかすむ空が広がり、潮の匂いには軽油と鉄の臭いが混じる。


 トラックが行き交う広い岸壁の端に、目立たない倉庫がある。四之宮は煙草を咥えたまま、倉庫のシャッターをくぐった。後ろから、若い男が一歩下がった位置でついてくる。


 四之宮は中を見回すと、奥にシルバーのプリウスがあるのが分かった。薄く埃をかぶっているが、洗車をすれば問題ないレベルだ。煙を吐きながら車に近寄り、車体を確認する。


 フロント、リア、側面に目立つ傷や凹みはない。ホイールは純正。スモークも濃すぎない。ボンネットを開け、エンジンルームを一瞥していると、奥から男が一人出て来た。


 歳は四之宮より少し上。黒いシャツを着たガタイの良い男だった。


「おぅ、早ぇな! 来たんなら声ぐらいかけろよ!」

「丁度今来たところだよ。さっきは無理言ってすまんな。んで、詳しく教えてくれるか?」

「おぅ、コイツはな、履歴が複雑でよ……理由わけあって海外を二度回ってる。名義を辿るのは難しいぜ」


 四之宮は鼻で笑う。


「いいね。消えてると、逆に怪しいからな。助かった」

「そうか。そりゃ良かったぜ」


 黒シャツの男は頷いた後、四之宮をジッと見据えながら、親指と人差し指で “札をめくる仕草” をした。


二五にいごでどうだい?」


 金の話になり、空気が変わった。


 提示された額は、相場の中古車価格より明らかに高い。“世話代” が含まれている。


 四之宮は子分に目配せする。持参したバッグを男に渡すと、すぐにジッパーが開かれた。札束の匂いが、男の鼻腔をくすぐる。


「三百万入ってる。端数は手間賃だ」


 倉庫の男はバッグを閉じた。そして、ズボンのポケットに手を突っ込んだかと思うと、四之宮に向かって鍵が投げられる。


「上客には話が軽くなるぜ。今日から、コイツはあんたの車だ。書類関係はすべてダッシュボードの中に入ってる。確認してくれ」


 四之宮は片手でそれを受け取ると、無言で運転席に乗り込んだ。


「さてと、まずは洗車か」


 一通り確認を終えた後エンジンをかけると、ハイブリッド特有の起動音がした。倉庫を出ると、生温い潮風が車体を煽る。若い男は、四之宮の車で後ろにつき、二人は事務所へと戻っていった。




***




 黒木は、ソファで仮眠をとっていた。意識は完全に切り離さず、周囲に異変があれば、すぐに動けるような浅い眠り。四之宮がプリウスから降りると同時に、目を覚まして事務所の外へ出た。


「アニキ! 用意できました。履歴が海外経由でややこしい事になってまして、名義を辿るのは相当難しいみたいです!」


 黒木は無言で車体を見た後、運転席のドアを開けて座り、ハンドルを握る。


「足りたのか?」

「はい。二五ってことでしたが、そのまま空気代にさせてもらいました」


 黒木はバッグから札束を出して、四之宮に渡す。


「そうか。世話になったな」


 四之宮は黙って頭を下げた。黒木はエンジンをかけ、酒屋へ向けて車を走らせる。




 だが、だが辿り着いた場所に酒屋はなかった。敷地は更地にされ、新しい砂利が敷かれている。建物があったであろう痕跡は、跡形もなく消えていた。


 黒木は車を降り、聞き込みの為近所へと足を向けた。住宅の前で、買い物袋を抱えた女性を呼び止める。


「少々お時間を頂きたいんですが……ここにあった酒屋さんってご存じですか?」

「ああ、あそこ……えっと、確か蔵森酒店ね」


 女性は目を細める。


「ご主人、おかしくなっちゃったみたいでね。離婚して、どこか病院通いしてるって噂を聞いたわよ」


 黒木は、注意深く女性を観察していた。


 ——審魂さにたまの瞳。輪郭が揺らぎ、女性の内にある “魂” が浮かび上がる。濁り。歪み。青色に灰を混ぜたような色彩。重なった欲と嫉妬の色。黒木に詳細はわからないが、薄汚れているのは明らかだった。


 そして、現世でも問題なく使える事が分かり、黒木は胸の内で苦笑した。


「そうでしたか。それで、今どちらにいらっしゃるかなんて、わかりませんよね?」

「ええ。ごめんなさい、わからないわ。何かお困りごと?」

「まぁそんなところです。お時間頂いてすいません。ご協力ありがとうございました」


 体内でフェイブルが腹を抱えるほど笑っているのが感じられた。


『キャハハハハッ! まさか病気とはな!』


 車に戻って短いため息をついた後、ハンドルに手を置く。更地をもう一度見渡した。逃げたのか。壊れたのか。どちらでも構わない。また、探せばいいだけだ。


 黒木は端末の画面を開き、発信ボタンを押した。


「……仕方ねぇ。その道のプロに行方を捜してもらうか」

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