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黒木は自宅に戻って身支度を済ませた後、まず拳銃を分解した。
S&W。四発の空になった薬莢が転がる。テーブルの上に並べて、静かに見下ろす。
「報告書か……クソッ、面倒だな」
警察署に戻れば、当然書類の記載が必要になる。発砲の経緯、状況、弾道、弾頭の有無、危険性について。黒木は椅子に腰を下ろし、両肘をテーブルに乗せて深いため息をついた。
(真実はすべて書けない。さて、どうしたもんか……)
黒木は拳銃を組み直しながら思案した後、ペンを走らせた。
【拳銃使用報告書(発砲事案)】
【発生日時】
令和8年7月1日 午前0時20分頃
【発生場所】
旧高木町共同ビルディング内
【任務概要】
失踪中の長谷川ユースフ・アミンの所在確認のため捜索中。
任意同行にて事情聴取を実施した田中将の供述内容を精査した結果、同人が異変を目撃したとされる時刻帯に合わせ、念のため拳銃を携行の上、上記建物内の確認を実施した。
【発砲に至る経緯】
建物内を捜索中、前方約十メートル地点に長谷川ユースフ・アミンと思料される人物を認め、追跡を開始した。
追跡中、前方約十メートル地点に人型の存在を認めた。
当該存在は刃物様の物体を保持し、急速に接近。生命身体に対する急迫不正の侵害と判断し、四発を胸部に向けて発砲。
発砲後、当該存在を確認できず。
ここまで書いた後、黒木の指先は動かなくなった。
(目撃者として田中の名前を挙げることが可能かもしれない。だが現状、あいつの所在は不明。おそらく、まだ冥府に居る。口裏を合わせる時間もない。とすると、ユースフを発見した事にして、併せて被疑者と思われる人物を捏造し、発砲したことにするしかないが……)
発砲したのは四発。それが、まずい。弾頭が見つからない。壁にも、床にも、弾痕は一切ない。跳弾の擦過痕すら存在しない。
一発だけであったなら、まだ説明はつく。跳弾して、偶然回収不能な場所に飛び込んだ——そういう可能性も否定はできない。
だが四発だ。四発すべてが痕跡を残さず消えるなど、現実的ではない。破片も、微細な衝撃痕もない。
仮に被疑者が防弾チョッキを着用していたとしても、全弾が胸部に命中したなら無傷では済まない。鈍的外傷は避けられず、転倒や呼吸困難の痕跡があって然るべきだ。
それなのに、決定的な矛盾がもう一つある。硝煙反応が出ない。発砲が事実なら、現場には、何らかの残渣が残るはずだ。だがそれすら存在しない。
鑑識が入れば、五分で矛盾が露呈する。かといって事実を記載したら、精神鑑定の対象となり、監視下に置かれるだろう。
現場検証が入り、何も出ない——想像して、黒木は低く呟いた。
「……詰みか。あいつと仲良く精神鑑定ってわけにもいかんしな」
乾いた笑いが漏れる。
「……まぁ、奴が現世に戻って来られるのかも、わからんが」
ペン先が紙をかすめ、インクが小さな点を作る。報告すれば、鑑識。その後、監察。精神状態の精査。長期の内部監視。
そして、このまま署に戻らないのも大問題だ。所在不明の警察官が拳銃を携帯——懲戒免職。刑事責任。捕まれば、未報告発砲も洗い出される。重大服務規程違反。
「……面倒くせぇ」
黒木はペンを放り出した。S&Wを手に取り、残弾を確認する。
黒木は、残り一発となった弾を手に取って見つめた。
真鍮色の薬莢が、磨かれた金属特有の柔らかな黄金を帯びている。琥珀の奥に炎を閉じ込めたような、深みのある輝き。まるで自身の怒りを象徴するかのようだった。
弾頭の銀白色は対照的に、鋼のような冷たさを感じさせ、縁をなぞる光は、海面に反射する月明かりを感じさせ、澪の無念を連想させる。
指紋がうっすらと曇りを作り、そして消えていく。
フェイブルが、楽しげに語りかける。
『選択肢は単純だ。組織の犬か、自由になるか』
黒木は椅子に深く腰を沈め、天井を見上げると、静かに目を閉じた。自身を呼ぶ澪の顔が思い浮かぶ。何年経とうとも、あの頃のままの表情で——。
過去の自分を振り返る。犯人が分かった今、刑事になった目的は、すでに果たされたと言っても過言ではない。黒木には、そう思えた。
そして、自ずと優先順位は変わっていく。
無理やりかき集めた、当時の捜査資料を引き出しから取り出す。澪の写真。現場見取り図。事情聴取の記録。ページをめくる度に、当時の匂いが蘇る。
当然のように酒屋にも聴取は行われていた。配送ルート、時間帯、目撃証言——だが、形跡が薄い。警察は、まったく彼を疑っていなかった。
「……なぜだ?」
怠慢か、無能か。いずれにせよ、未解決であるという結果は変わらない。怒りが、再び増幅していく。
「このまま署には戻らん」
誰にでもなく吐き捨てるように言うと、書類の束を閉じて、ゆっくりと立ち上がる。
「酒屋のオヤジを殺す。それで終いだ」
机の上の報告書を、ぐしゃりと握り潰す。そして、棚の奥から工具箱を取り出した。中に入っていたのは黒いガムテープ、ロープ、作業用手袋、結束バンド。これらを取り出して整然と並べる。そして、低く、独り言のように呟く。
「捕えたら、まず口を塞いでやろう。澪と同じように」
フェイブルが楽しそうに高い声を上げている。
『キャハハハハッ! 用意周到だな』
「こんなクソみてぇな世界、こっちから終わらせてやるよ」
フェイブルの気配が濃くなり、愉悦に震える。
『ようやく本番だな?』
自宅の時計が、無機質に時を刻む。署に戻る想定時刻は、もう過ぎている。
「……そろそろまずいな」
拳銃を持ち出している以上、帰署時間は記録に残る。無断で長時間戻らなければ、それだけで捜査対象だ。無線は切ったまま、連絡も入れていない。
黒木は自分のスマートフォンを見つめた。位置情報。通信履歴。基地局のログ。警察組織は、思っている以上に執拗だ。
「身内にこそ容赦しねぇ所があるからな」
皮肉のように笑う。この端末を持って動けば、足取りを追われる。酒屋を探る前に、まず自分へと繋がる “線” を切っておかなければならない。
引き出しの奥から、小さな箱を取り出す。以前から準備していた簡素な端末。最低限必要な連絡先を登録してある。
「まさか、こんな形で使うとはな」
黒木はさっきまで使用していた端末の電源を落とし、一瞬視線を逸らす。暗くなった画面には、自身の顔が反射していたはずだったが、そこには蝙蝠のような顔貌が、口元に笑みを忍ばせて映っていた。
新しい端末を久しぶりに起動させる。黒木にとっては帰路の遮断とも言えた。
改めて、壁の時計を見やる。
「……もう時間はないな」
黒木は拳銃を手に取り、上着の内側に収めた。迷いはない。あとは行動するだけだ。
金庫を開け、自宅に保管してあった現金を手際よくボストンバッグへ詰める。ジッパーを引き上げると、黒木は静かに自宅を後にした。
アスファルト上で陽炎が揺れる。湿気を含んだ風が肌にまとわりつき、袖を捲ったジャケットの下——白いシャツが、汗でじっとりと背中に貼りついている。
すぐ近くで、白バイの赤色灯が瞬いた。黒木は駅前の人通りを横切りながら、帽子のつばを深く下げる。
黒のキャップに縁の細い伊達眼鏡とボストンバッグ。鏡に映った自分は、どこにでもいる学生のようだった。懐に忍ばせた銃と、バッグの中身さえ、わからなければ。
切り換えたばかりの端末をポケットから取り出して、連絡先をタップして発信すると、数コールで繋がった。
「よぉ、四之宮。実は頼みてぇことがあるんだが、今から駅まで来れるか? 事情は後で話す」
一秒に満たない逡巡の後、弾んだ声が返る。
「あ! アニキッ! お久しぶりです! どうしたんですかこんな朝早く??? 駅まで行けばいいんですね! すぐ行きますから!」
通話は一瞬で終わった。黒木は駅前のロータリーを見渡す。交差点を渡る人の流れ。スーツ姿の会社員。自販機の前で会話する学生達。その中に立つ自分が、やけに浮いている気がした。
十五分ほどで、白いミニバンが現れると、助手席の窓が下がる。
「アニキ!」
身を乗り出すようにして窓から顔を出した 四之宮 蓮 は、相変わらず飄々とした笑みを浮かべていた。茶に染めた髪を後ろで束ね、左耳のピアスが光っている。
だが黒木の姿を見るなり、表情がわずかに固まった。黒木は無言で後部座席に乗り込むと、すぐにドアを閉める。車内は冷房が効いているはずだったが、人ひとりが乗り込んだだけで、空気が一変したように熱を持った。
「お、お久しぶりです! とりあえず、事務所の方に向かいますけど……それで、一体何があったんです?」
「あぁ。順番に話すが、これは冗談じゃねぇ。マジな話だ。笑いやがったらそのまま口を裂いてやるから、心して聞けよ?」
「あ、アニキ、それこそ冗談はやめてくださいよ! それにどうしたんですか? 変装なんか……あ、あと、なんか雰囲気が変わってさらに恐ろしく……」
「うるせぇな」
四之宮にとっては軽いやり取りのはずだったが、黒木の声は低く、重厚だった。
「あんまりうるせぇと、お前から先に殺るぞ?」
ゴクリ。四之宮の喉が鳴る。
「えっ……!! さ、先に殺るって……もぅ、勘弁してくださいよ……!」
ハンドルを握る手が汗で滑り、視線が泳ぐ。車内に漂う底知れない雰囲気に、四之宮は電話に出たことを後悔し始めていた。そして、本能的に理解する。
黒木は、以前の “刑事” ではない。
「……冗談だ。お前は殺しゃしない」
黒木が独り言のように、小さく言う。
お前 “は”。その一言で、四之宮の腋窩から汗が流れ落ちる。
黒木の奥で、フェイブルは愉快そうに笑っていた。




