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「……黒木さんは?」
その声が響いた時、リュッサの笑みに影が差した。少し考えるように目を伏せて沈黙した後、絡んだ糸を解くように、ゆっくりと話し始めた。
「黒木さんは、悪魔と契約を……。すでに、現世へ戻られたようです」
田中はリュッサの表情に、予期せぬ事態が発生したことを察知しつつ、耳を傾けていた。それでも、驚きを隠せなかった。
「悪魔と契約!? なんでそんなことに!? どういうことですか? はやく追いかけて止めないと!」
言い終わる前に、リュッサは静かに首を振りながら柔らかい声で、諭すように言った。
「田中さんが戻る場所は、そこではありません。田中さんは、ご自身が成すべきことを成してください。黒木さんの件は……冥府の責務として、引き受けます」
リュッサはそう言って、現世へと続く門を指し示した。
「田中さんには、現世でしか出来ないことがあります。生き続けること。向き合うこと。それ自体が、あなたの償いです」
田中は立ち上がろうとしたが、足元がふらついた。ツゲが無言で肩を貸す。田中はツゲに支えられながら、ゆっくりと門へ向かって歩き出す。そして、ぽつりと本音を漏らした。
「俺、怖いです。現世に戻るのが……。現実と向き合ったら、また、逃げたくなるかもしれない」
「それでも、戻ってください。恐怖を知ったまま、生きることを選んだあなたなら……きっとまた、乗り越えられる」
リュッサの言葉に背を押され、田中は深く息を吸った。あれほど帰りたかった場所なのに、今では迷いと恐怖が先に立つ。それでも、門の前に立ち、その淡い光の向こう——現世へと帰る決意を固めた。
「リュッサさん、俺、戻ります。本当に色々ありがとうございました。」
そう言って一歩踏み出すと、光が田中の視界を満たし、冥府の冷気が遠ざかる。
背後でリュッサの声が、田中の背中を押すようにそっと響く。
「どうか、ご無事で……」
田中の姿が完全に消えたあと、自由域には静寂が戻っていた。
***
その悪魔は、人間の感情を理解していると信じていた。
人が怒るとき、悲しむとき、あるいは根拠のない万能感に満たされるとき——それらはすべて、共有が可能な感覚だったからだ。
悪魔は人との取引を好んだ。明白な見返りを求めないことで、猜疑心という名の罠をばら撒き、感情をさらに不安定で鋭利なものにする。そして、その状態を持続させるため、あからさまに何かを奪うことはせず、ただ同調した。
人間の内側に生じた揺れを、自分の内側にも流し込む——とりわけ悪魔が好んだのは、悲観だった。絶望や、嫉妬、怒り。それらに伴う欲望。
人間のエネルギーは、小さい体に見合わず、強大で複雑。善悪がせめぎ合い、長く留まる感情ほど、欲求を満たした。そして、悪魔はそれらを愛していた。
人間を愛したわけではない。ただ、希少性という意味では、掃いて捨てるほど存在する人類の中で、この悪魔を満たすことができる感情を携えているだろう者は、極僅かだった。
悪魔の名は、フェイブル。
フェイブルは黒木の魂を自身のように愛した。だが、客観的な用途が、使い捨ての玩具と似ているという自覚は、最期まで持てなかった。
黒木は洞の奥へ身を投げたはずだった。だが感覚は「落ちる」ではなく、「裏返る」に近い。内臓が反転するような錯覚があった後、視界が裂け、空間が折り畳まれていく。
「コツッ!」
コンクリートの硬質な感触が、靴底を打った。黒木は荒い息をつきながら顔を上げる。見覚えのある部屋。剥き出しの鉄骨。崩れかけた壁。——あの廃ビル。
「……戻ったか」
唇の端がわずかに吊り上がる。だが、空気が違う。湿ったカビと、鉄錆の匂い。そのすべてが、妙に鮮明だった。そして、心臓の音が、自分のものだけではない気がする。
『——いい眺めだな』
耳元で、高く歪んだ声が囁いた。黒木は反応しない。ただ、ゆっくりと立ち上がり装備を確認する。泥にまみれたスーツ、S&Wに警棒。ポケットには、冥府で沈黙していたスマホ。現在は、その機能を取り戻していた。
「……朝五時過ぎか。もっと長く居たような気がするんだが、あまり時間が経っていないな」
『冥府の流れは、現世と一致しない。魂の流動で変動する』
フェイブルが意識の奥で笑っている。
黒木の目が、徐々に明るさに慣れ始め、色を帯びる。人の通った痕跡。微細な足跡。乾いた泥の付着。壁に擦れた繊維。情報が流れ込む速度が、以前よりも速い。
だが、それ以上に、怒りが鮮やかだった。澪の最期—— “知らなかった過去” が、胸の奥でぐつぐつと黒く煮え立っている。
『キャハハハハッ! いい! その熱。さっき迄より濃厚だ!』
「黙れ」
黒木は低く吐き捨てる。だが否定の言葉とは裏腹に、口元は笑っていた。拳を握ると、力が満ちているのがわかる。恐怖も躊躇もない。
『——急ごう!!』
声は自然に、思考の中へ溶け込んでいる。
標的はこの現実の中にいる。のうのうと呼吸を繰り返し、今日も飯を食って、笑っているだろう。黒木の瞳孔が、わずかに開いた。
「……居場所は分かるのか?」
『嗅げるさ! オマエが嗅いだ臭いを私も味わう。これも、共有だ。素晴らしい感覚だろう?』
「具体的にはわかんねぇのかよ? 使えねぇな」
黒木は階段へ向かう。瓦礫を踏み越え、錆びた手すりに指をかけて、下へ。一段、また一段と降りる足が、とても軽い。身体は自分のものだ。だが、 “もう一人” に同じ動きをなぞられている感覚がある。
外へ出ると、朝を迎えた街が広がっていた。チュンチュンと鳴く雀の声は、こんなにも金属的だっただろうか。可愛らしいはずのその声は、ガラスを爪で弾くように黒木の耳朶を打った。
その隙間を、ゴォォと、タイヤが道路を擦る音まで聞こえる。アスファルトを踏み潰す振動が、地面から背に伝う。エンジンの回転数の変化も、手に取るようにわかった。アクセルを踏み直す、ほんの一瞬の躊躇まで。
そして、不意に女性の声が聞こえる。黒木の周囲に人影はなかったが、道路の向かい側に、二人。姿は見えないが、低い声と高い声が混ざっていた。距離がかなりあるはずなのに、意識を向ければ内容まで鮮明に聞こえる。
黒木には、これらすべてが、標的へ続く導線のように思えた。
『さぁ、狩りの時間だ!』
「急かすんじゃねぇよ。ひとまずシャワーと着替えだ」
小声でそう呟くと、黒木は自宅に向かって歩き出した。
『(混ざって来た。オマエとの境目が、膜みたいに薄い)』
黒木の五感は、フェイブルと同調したことで研ぎ澄まされる。その感覚に反応するかのように、胸元の青い宝石が、光を反射して妖艶に揺らめいていた。




