20
「では、味わおう。愛しき魂の人。オマエがずっと求めてきた答え。そして “感情の爆発” を」
悪魔は黒木に、じりじりと這い寄るように、奇怪な動作で近づいた。怪訝な表情を浮かべる黒木だったが、悪魔は全く意に介さない。体毛に覆われた細長い腕を、そのまま正面へ——黒木に向かって伸ばす。
その指先が、額に触れた。ずぶりと皮膚の内側に、他者の気配が滑り込んでくる感覚。高い声が、耳ではなく頭の奥で鳴った。
(眼を閉じろ。抵抗はいらない)
悪魔の声が、近くなる。
(これは侵略ではない。重なりだ。ただオマエの内側に、私が “同調” して入り込む)
——来る。そう確信した瞬間、胸の奥に訪れたのは違和感ではなく、快感だった。
両眼を開くと、視界が澄んでいる。さっきまでわずかしか捉えられなかった歪な丘の形状。暗がりにあったはずの洞の内部まで、妙にくっきりと浮かび上がった。
それに、音が近い。鼻腔を通り抜ける自分の呼吸音が、やけに大きく聞こえる——いや、違う。それだけじゃない。世界の解像度が上がっているような……。
黒木の自尊心や渇望、恐怖も、不安も、まったく削がれていない。むしろ、鮮明になった。そのはずなのに、嫌な気分はしなかった。忌避する理由があるとすれば、悪魔と同調しているという、その事実だけ。
その時、身体の内で悪魔の声が囁く。
(では、幕を上げよう。オマエの為に準備してやったんだ! 楽しんでくれよ)
***
その酒屋は、澪の通学路の途中にあった。
朝と夕方、同じ時間に同じ場所ですれ違い、短い挨拶を交わす。それは特別な関係ではなく、町に溶け込んだ景色の一部のようだった。澪にとっても、彼にとっても。
彼は商売人だった。
人と摩擦を起こさないこと、波風を立てないこと、それが生き方そのものだった。笑顔は癖のように顔に貼りついていて、乱暴に声を荒げることも、自身の感情を表に出すこともほとんどしない。誰かの記憶に残ったとしても、「感じのいい酒屋さん」という印象だけの男だった。
彼から見て、澪は小さいころから変わらなかった。
年齢を重ねても、無邪気な笑顔で挨拶をし、視線を逸らさなかった。それは彼にとって、自分の為人が変わっていない証のように思えた。自分の娘が成長していつの間にか距離を取るようになり、親子の会話に蓋をしていったのとは対照的に、澪は相変わらずそこにいた。
ある日、澪の姿が通学路から消えた。
数日、数週間が過ぎても澪の姿は現れない。その理由を、彼は自分の娘を通して知る。
新築への転居——それは本来前向きで、祝福されるべき出来事だった。それなのに、彼の中ではいつの間にか “喪失感” にすり替わっていった。
彼は、祝意という形を選んだ。
商売人として、近所の住人だった者として、問題を起こさないために最も無難な選択をしたつもりだった。祝いの酒を持って黒木家を訪れたとき、彼自身はまだ、自分が一線を越えているという自覚を持てなかった。ただ、失われた日常を取り戻そうとしているだけだと、そう信じていた。
その祝日、店のシャッターは下りたままだった。彼の弟夫婦がその日、車で店を訪れていたのだ。
弟は到着後、車を酒屋の駐車場に停めたままにし、弟の家族と、妻と娘を連れて店を出た。そこからは電車を利用し、テーマパークへ向かっている。
そのため、店には車だけが残り、当人たちは夕方まで戻らない予定だった。町は休日の空気に包まれていたが、彼はシャッターを上げずにいた。
弟のキーが残されているのを確認すると、無造作に手に収めて車へと向かう。ドアを開けると、車内にはシートの隙間に挟まった玩具や、足元に転がった小さなサンダルが見える。後部座席のシートを倒し、それらを覆い隠すようにブルーシートを敷いた。
そして、一人で車を走らせる。どこへ向かうのか、自分がこれから何をしようとしているのか——まだ、揺蕩っていた。沸き上がった衝動。勢いのままに実行したこの思いつきは、相手さえいなければ、現実にはならないのだと分かっている。
黒木家の玄関先。澪は車のエンジン音に気がついた。
(配達かな……?)
「コンコンコン!」と短く、そして素早く響いたノックに澪は玄関まで移動してドアを開けた。そこには見知った顔だが、予想しない人物が姿を現していた。
「こんにちは澪ちゃん! 久しぶりだね! お父さんとお母さんはお仕事かな? 実は……荷物、があってさ。ちょっと……外まで出てこれるかい?」
言葉を発した瞬間から、彼の胸の奥で何かが早鐘を打ち始めていた。計画と呼べるほどのものではない。ただ、ここまで来てしまった、という感覚だけが強くあった。引き返すという選択肢は、両親が不在だったことで消失している。
呼吸が浅く、早くなっていた。平静を装おうとするほど、視界の端が揺れ、時間の流れが歪んでいく。彼は今、何を考えているのかを整理する余裕はなく、ただ「関係を取り戻したい」という感情だけが膨れ上がっていった。
興奮は快楽ではなく、切迫感に似ていた。澪の反応ひとつひとつが、安心と不安を交互に突きつけてくる。拒まれればすべてが終わる。だが、終わらせたくはない。その思いが、理屈を追い越していく。
頭では、これは間違っていると理解している。しかし同時に、今ここで踏みとどまれば、二度とこの距離には戻れないことも分かっていた。その恐れが、判断を急がせる。
焦燥が、興奮が、不安が、思考を削ぎ落とし、残ったのは本能だけだった。それが彼女の世界を傷つけることになる可能性を、彼はまだ「現実」として受け取れていなかった。
澪は、目の前に立つ相手が、いつもの酒屋のおじさんとは違うことを即座に察していた。
なぜ突然ここに来たのか。なぜ、これほど落ち着きがないのか。理由は分からない。その違和感が、確かな警告として胸に迫ってくる。
得体の知れない不安に突き動かされ、澪は身を翻し、二階にいる弟を呼ぼうとした。異変を悟られないよう、声の調子を抑えたまま。
「真也」
しかし、不安は察知され、名前を口にしたのと同時に、澪の意思は途中で断ち切られた。背後から迫り来る気配と共に、彼女の口は大きな手で無理やり塞がれる。
自宅の裏に停まっていた黒いワゴンの後部座席が開け放たれると、抱えるように乗せられた澪は、そのままガムテープで口を塞がれ、ロープで手足を縛られる。
車が走り出した。安定しないハンドルに揺れる車体。海岸沿いをしばらく走り、ひと気のない山中で車は停車する。
澪は襟元を掴まれ、車から引きずり降ろされた。
それからの出来事は、傍から見ればほんの一時だったのかもしれない。だが、取り返しのつかない断絶は、確かにそこで生まれた。
その後、彼は澪に向き合い、沈黙を求めた。
「この事は黙っていろ。いいな?」
それは脅しや取引ではなく、反応を見るための確認行為だった。泣きながら頷くだけの澪を、彼は信じなかった。信じるということは、残った自分の人生すべてを賭けることと同義だったからだ。
澪の泣き声が響く山の静けさの中で、彼は決断する。過ちを、すべて無かったことにするために。
そして、せめて苦しませないように。
彼にとって、それは衝動的な行為ではなく、保身のため。失われるはずだった日常を繋ぎ止めるための、簡単な計算だった。
町には、何事もなかったように日常が戻る。そして、澪がいなくなった現実が残った。
***
黒木の胸の奥が、熱を帯びる。怒りと殺意によって。
拳を握ると、関節が鳴る。その音が心地いい。あの酒屋のオヤジを殴る様子が、ありありと想像できる。骨の感触。肉が歪む手応え。
黒木は、自分が笑っていることに気づいた。長年自身を苦しめてきた問いに、ようやく答えが与えられたからだ。ついに、犯人が分かった。
だが胸の奥で、強風と荒波とがぶつかり合う。
吹き抜けた風が、重く垂れ込めていた霧を静かに押し流す。視界は澄み、長く曖昧だった存在は、もはや否定できない実体として現れた。一瞬、光が心を照らす。戦い抜いた日々の終わりが、もう、すぐそこに見えている。
だがその光はあまりにも鮮明で、過去をえぐる。引き裂かれた肉親との時間、届かなかった澪の叫び、取り戻せない時間——悲痛な表情が渦となり、生々しい現実として波のように押し寄せる。
喜びは罪のように胸につかえ、怒りは激しく高ぶっていった。悲哀も、憎悪も、海底で身をよじるようにうねり続けている。
怒りと悲しみの間に挟まれ、深く、深く沈み、溺れていく。
「このゲス野郎……必ず息の根を止めてやる」
黒木の内側で、悪魔が笑っていた。
怒りが、悲しみが、憎悪が、繊細な感情として渦を巻いている。その奔流に、身を浸すようにして悶えていた。
甘美なものを舐め取る獣のように。ゆっくりと、余韻に浸るように。
(——ああ……いい。とても、いい)
高く歪んだ声が、黒木の頭蓋に響く。
(これだ! 張り裂ける直前の感情。抑えきれず、行き場を失い、それでも壊れきらない、この熱量。人という器は、本当にすばらしい)
声は喜びに濡れていた。黒木の怒りを、自分の鼓動のように感じ取りながら。
(安心しろ。今は、まだ “ちょっと触れただけ” だ。分かるだろ?)
だが、同調は進んでいた。引き返せないほどではないが、確実に、深く。
(さあ……準備は整った)
悪魔の声音が、さらに高くなる。
(急げ! あの存在——憎しみの原点に終止符を打つんだ)
悪魔は洞の奥へ黒木を誘導する。黒木は、数歩進んだところで、ふと胸元に微かな重みを感じ、視線を落とす。そこには、鈍い光を放つ青い宝石があった。
一瞬、外したいという衝動に駆られたが、それはすぐに消えた。
——この悪魔が着けていたもの。
そう思うと、不思議と手を伸ばす気にはならなかった。黒木はわずかに眉をひそめただけで、そのまま歩みを続けた。
(帰還点は、心得ている。オマエたちが “入ってきた” 場所だ)
告げるまでもなく、黒木には理解できていた。
(さあ、戻ろう。現世へ。オマエが怒りで満たされている、今のうちに)
黒木は答えなかった。ただ一度、舌打ちのような息を漏らし、洞の奥へと身を投げる。隆起した丘が、彼を飲み込んだように見えた。




