19
岩肌の感触で、田中は意識を取り戻して目を開いた。身体は何か柔らかい布に包まれて横たえられているらしいが、触れている実感が薄い。皮膚と布の間に、膜が一枚挟まっているような感覚があった。
「……気がつきましたか」
低く、落ち着いた声がして、田中がわずかに首を動かすと、リュッサの姿が見えた。隣にはツゲが控え、布を濡らして田中の額に当てている。
息苦しさを感じた田中は深呼吸しようとした瞬間、喉の奥がひりついた。
「痛ッッ」
声が掠れていた。喉が腫れ、狭くなった気道のせいで呼吸苦が生じる。それでも、そんな事は些細な事であるかのように、気にも留めず田中は質問する。
「ここは……?」
「第一層です。あなたは戻られました」
リュッサが静かに伝える。田中は視線を落とそうとし、そこで自分の手を見た——指の形は保たれている。しかし、皮膚は一部赤く変色し、ところどころ水疱の痕が残っている。まるで軽度の火傷を負った痕のようだった。
その割に、灼熱感も、痛みも、あまり感じない。
「……俺の、身体……」
「第七層の影響です」
リュッサは隠すことなく言った。
「顔面、四肢の皮膚に軽度の損傷があります。ただし、衣服があったおかげで体幹部は軽く済みました。命に別状はないかと思います」
命。その言葉を聞いても、実感は湧かなかった。
ツゲが小さな器を差し出す。
「水です。少しずつ」
田中は唇を濡らした。喉を通る感覚はある。だが、水の味がしなかった。ただ冷たい液体が流れ込んでくるだけだ。
「……味が、しない」
「嗅覚と味覚が低下しているようですね。触覚にも障害が出ています。完全には戻らないかもしれません」
リュッサが淡々と告げるその言葉に、田中は目を閉じた。絶望よりも先に、納得があった。代償なしで、戻れるわけがない。
「ですが、田中さんはよくご自身と向き合いました。魂の浄化は、確かに行われています」
リュッサの声はわずかに柔らいだが、田中はゆっくりと首を振った。
「……違うんです。最後まで、俺は情けなかった。……助けを、求めてしまったんです。誰かを身代わりにしようとしていた」
声を絞り出すが、言葉が途切れる。
「怖くなっただけです。どうしようもなくなって、諦めただけで……立派な選択なんて、できなかった」
静けさが周囲を包んだ。洞穴の手前で、水滴の落ちる音だけ響く。やがて、リュッサが口を開いた。
「それでも、です」
田中が目をリュッサに向ける。
「恐怖の中で、自身の醜さを自覚し、否定せずにそれを受け止めた。とても困難なことです」
リュッサの瞳が、まっすぐ田中を捉える。
「あなたの魂は、美しくなりました」
その言葉に、田中は何も返せなかった。肯定する資格も、否定する力も残っていなかった。
「……現世へ、戻られますか?」
不意に投げかけられた問いに、田中は息を詰める。一瞬言葉を探すようにして——
「俺……結局、何も手に入れてないのに、帰れるんですか?」
「ええ。浄化が済んでいれば、帰還は可能です」
リュッサは迷いなく答え、笑顔を見せると、田中はリュッサとツゲの顔を順に見た。ツゲは何も言わず、ただ穏やかに頷く。
しばらくして、田中は小さく息を吐いた。
「あの……黒木さんは?」
その名前を口にした瞬間、二人の間に動揺が走った。リュッサは口を開きかけ、そして閉じた。
「黒木さんは……」
言葉を選ぶように、視線を伏せる。田中は、その様子で察してしまった。黒木の階層試練で、予期せぬ何かが起こっていたのだと。
***
「バチャンッ!」
落下の衝撃の瞬間、黒木は泥に叩きつけられていた。
「……チッ」
舌打ちと同時に、手に収まっていたはずのものが無いことに気づく。カルンから、奪い取った刀……。
周囲を見渡すが、暗い空と沼が広がるばかりで、刀の行方は分からなかった。落下の衝撃で、どこかへ飛ばされたらしい。
「ふざけやがって……」
足を踏み出すと、ぬちゃり、と嫌な音がした。
沼地だ。膝下まで沈み、引き抜くたび足に重く纏わりつく。その暗闇の中、遠く向こうに、わずかな光りが見えた気がした。
丘——いや、そう呼ぶには歪すぎる隆起。黒木は足を取られながらも、そこを目指して歩き出した。
近づくにつれ、その全貌が明らかになる。溶岩が流れ、固まり、無理やり形を保ったような巨大な塊。丘と呼ぶにはあまりにも妙な起伏の、その洞の奥から、赤黒い指が一本、ぬるりと伸びてきた。
縁に爪をかけ、身を引きずるようにして姿を現したそれは、一切の衣服を纏わず、赤黒い皮膚と黒い体毛を露出させている。細長い体躯で骨ばった四肢。異様に長い腕。決定的に人間ではなかった。
顔貌は、サルを思わせる輪郭に、潰れた鼻と尖るように伸びた大きな耳。蝙蝠と似て見えた。目は小さいが、異様に澄んでおり、知性の光を宿している。首元には、青い大粒の宝石を通したネックレス。指には、サイズの合わない大きな指輪がいくつも嵌められていた。
それが、黒木に近づくように正面へ一歩、前へ出た。
「……なんだ、てめぇは」
黒木が威圧するように低く問う。それは、薄く笑い声を発した。
「キャハハハッ! 警戒心は、まだ健在らしい。私なんてここではまだ、かわいいものだと思っていたのに……」
高い声。耳にキンと刺さるようでいて、妙に滑らかな声。人の喉を無理やり機械で鳴らしているようだった。
「安心すると良い。ここは私の領域だ。取って喰おうというのではない」
一拍間を置いた後、ニヤリと笑って話す。
「話し合いに来ただけさ」
黒木は睨みを利かせたまま、いつでも動けるように警戒態勢をとる。
「用件を言え」
蝙蝠顔は両手を広げて肩をすくめた。
「オマエの望みは強大となり、既に人の皮を破っている。声に出さずとも、充分に賑やかな程に」
一歩、距離を詰める。
「私は、その望みを満たすことができる」
黒木の眉が吊り上がる。
「……なんだと?」
蝙蝠顔は、鋭い歯を見せながらニヤリと笑うと、首を左へと傾かせた。頭は操り人形のように遅れて動く。そのまま首が直角に折れ、頭が、すとん、と落ちるように不自然な角度で止まった。まるで「首が外れた」と錯覚させられ、滑稽さと不気味さが漂う。
そして、そのまま見上げるように黒木を見つめた。生物として、あり得ない可動域であるにもかかわらず、平然と話を続ける。
「オマエの血族のことだ。あるいは、片割れ」
「……片割れ? 姉の事か?」
黒木の声が、わずかに掠れた。
蝙蝠顔は、くつくつと喉を鳴らした。
「そうとも。オマエが失った “片割れ” の話だ。どのように終わり、どのように扱われたのか」
青い宝石のネックレスが、振り子のように揺れる。
「……そして、誰が、どうやって、それを楽しんでいたのかも……キャァッハッハッハッ!」
高い笑い声が、沼地に響いた。
「見せてあげてもいい。物語は、共有されるべきだ。そう思うだろ?」
黒木は静かに息を吐いた後、顎をしゃくり上げながら低く言い放った。
「ほぅ……タダで見せてくれるってんなら、願ったりなんだがな」
蝙蝠顔は、満足そうに頷く。
「ああ。タダみたいなものだ。私は、オマエの意識に触れるだけ。奥の方を、覗かせてもらおう」
声が、やけに近い。
「オマエの目で見て欲しい。オマエの片割れの物語。どうする?」
黒木の胸の奥に、鈍い痛みが走る。
「……」
「これを逃したら、もう見ることはできない」
黒木は、目を細めて蝙蝠顔を睨みつける。
「……てめぇ、悪魔だろ? 話は聞いてる。取引したいなら、正直に対価を言え」
悪魔は、心底愉快そうに笑った。
「キャハハハッ! 対価ぁ? そんな重たい言葉を使うなよ」
「誘いには簡単に乗らん。それに……わかった後で、現世に戻れなきゃ意味がないだろ?」
「現世への門を開くなんて簡単さ。私は、ほんのちょっと押すだけ。鑑賞料は——」
赤黒い指が、自身のこめかみをコツコツと叩く。
「オマエの脳内に、私が触れることができる。それだけで、私は十分に満足だ。感覚を共有するというのは、本当に素晴らしい。恐怖も、怒りも、後悔も」
声が、甘く歪む。
「キャハハハハハハハッ!」
黒木は、しばらく黙っていた。その後、低く笑い、固く握っていた拳を緩める。
「……そうか。そこまで言うなら、見せてくれよ。拷問して吐かせても、ホラ吹きそうなツラしてやがるしな」
視線を上げ、悪魔を真っ直ぐ見据える。
「直接確認できるのなら、見せてもらおうか」
「キャハハハハッ! 契約、成立!」




