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18

 背後で、影が膨らんだ。気配が異様な密度で押し迫ってくる。田中は振り返ることができなかった。——見たら終わる。圧倒的な存在感から、そう確信した。


 恐怖から逃れるため、跳ねるように立ち上がると、不安定な足場を必死に前へ走る。地面はわずかにぬかるみ、足を取られて靴底が滑るたびに悪寒が背筋を伝う。だが、速度は緩めず全速力で走る。


 背後にピタリとついてきているのがわかる。追跡の足音や呼吸音はないが、それでも、影は確実に距離を詰めていた。さらに存在感が増し、『捕まれば無事では済まない』という不安と焦燥が襲う。田中は、反射的に首だけを動かしていた。


 姿は見えない。ただ黒い影が、背後の空間を満たし、確実に大きくなっているのが分かった。田中の視界の端は歪んで、焦点が合わなくなる。


「……誰かっ!」


 声が掠れる。


「誰か助けてくれっ!!」


 叫びは闇に吸われ、代わりに返ってきたのは、重なり合った嘲笑だった。中性的な声が渦を巻くように反響し、田中の耳孔に流れ込んでくる。


「お前だろ? 今さら何を言っている。助けを呼べる立場だと思っているのか?」


 その声が、田中の精神を削る。審魂さにたまの瞳には、濁りを増した自身の魂が映し出されていた。恐怖が募るたび、嘲笑が突き刺さるたび、色彩は澱の様に重く沈殿していく。


(まずい!)


 そう、直感的に理解する。このままでは、魂が変質する。元に戻れなくなる。


 影は、さらに膨らみ、輪郭が際立ちはじめた。


「シュルシュルシュルシュル……」


 何かが、後方から這い出してくる。舌を滑らせる音。ロープが岩肌を擦るような摩擦音。圧倒的な気配が背に迫り、田中は抗えずに振り向いた。


 大蛇だった。闇の中でもその輪郭は鮮明で、体長は十メートルを優に超えている。太く、長く、黒光りする胴体。田中が、生理的に忌避してきた生物だった。


 縦に裂けた瞳孔が、彼を捉えた。黄金色の瞳が瞬き一つせず、ただじっとこちらを見つめて、視線を逸らさない。まるで魂の奥底まで見透かされているように。


 田中は、動けなかった。


 蛇は、田中を中心に円を描くように動き出した。囲い込みながら、それでも瞳だけは決して外さない。


 逃げ場は、もうない。田中は必死に声を絞り出した。


「リュッサさん! 助けてください!!」


 声は、震え、張り詰める。


「黒木さん!!」


 返事はない。足音も、気配も。


 蛇の胴は、ゆっくりと輪を縮めて田中の脚に触れた。冷たく、滑らかな鱗が、腰に、胸に、肩に巻き付いていき、締め付けが始まる。


 骨が軋み、肺が潰されて息ができない。声も、もう出せなかった。


(痛い! 死ぬ! クソッ、なんでこんなことに! 誰か助けてくれ!!)


 動かない身体とは対照的に、思考だけが暴れる。


(あいつらだって! ユースフに同じことをしたじゃないか! 俺だけが、こんな……)


 助けを乞う思考。責任を押し付ける願い。気づかぬうちに、魂の色がさらに濃く濁っていく。


 締め付けは、限界まで達し、田中の意識は暗転した。蛇は、脱力を感じ取ると、巻き付く力を緩めた。


 再び意識が浮上したとき、田中の視界いっぱいに広がったのは、肉色の壁、湾曲した牙と、滴る唾液だった。


 蛇が、大きく口を開いている。このまま、喰われる。


 しかし田中の身体は、抗う間もなくその口腔内に収まった。牙が食い込むことはなかったが、代わりに湿った肉が身体を包み込んだ後、圧がかかる。唾液が全身を濡らし、喉の奥がうねると、身体が少しずつ内側へ——体内へと引き込まれていく。


 顎が外れ、肉の壁が広がる。光は唾液で歪み、田中の視界が閉じた後、完全に途絶えた。蠕動が始まり、やがて世界は胃袋となった。


 その瞬間、ふと、脳裏に浮かんだ顔があった。


 リュッサ。淡い光の中で、静かに語っていた姿だった。


 審魂さにたまの瞳。田中は意識を集中させると、闇のはずの体内で、はっきりと見えるものがあった。


 自分の魂。濁った紫色はより濃く変色しているが。変質はしていない。わずかに、試練で薄くなったという、元の色彩も残っている。


 俺は誓った。もう、誰も傷つけないと。

 でも恐怖に直面した瞬間、また、逃げた。

 また、他人になすり付けようとした。

 この罰は、俺のものだ。死んで当然かもしれない。

 それでもこれは、俺が受けるべき罰だ。


 蛇の体内で、消化が始まり、激痛が全身を貫く。しかし、田中は叫ばなかった。誰も呼ばなかった。ただ、歯を食いしばって耐えた。


 そのとき、魂の汚染が止まった。ゆっくりと、それでも確かに、色が薄れていく。闇の中、田中の魂は少しずつに光を取り戻し始めていた。しかし、田中の身体は徐々に融け落ち、命は危うい均衡の上にあった。


 蛇は、もはや抵抗を失った田中の身体を、ゆっくりと溶解させていくだけだった。いつの間にか、田中の呼吸は完全に止まっていた。


 しかし、肉体が酸に侵されていくのと同時に、魂にこびりついていた濁りもまた、削ぎ落とされていく。濁った紫色は薄まり、やがて淡い光を帯び始めた。


 階層における、罪の清算。その前段階としての試練であったが、魂の浄化をもって終わりを告げようとしていた。


 美しさを取り戻しつつある魂を腹に宿した瞬間、蛇は激しく身をくねらせた。苦悶するように地を叩き、のたうち回る。それは捕食の喜びではなく、異物を抱え込んだ者の拒絶だった。


 やがて蛇は、大きく口を開き、飲み込んだものを吐き戻す。粘液と胃液にまみれ、火傷を負ったように溶けかけた皮膚と、衣類を纏った田中の身体が、地面へと投げ出された。


 田中は丸まったまま、ぴくりとも動かない。一見すれば、すでに命を失っているように見えた。


 ——だが、心臓はまだ、微かに脈打っていた。


 階層で浄化された魂と身体は、もはやこの場所に留まることを許されない。地面が割れ、田中の身体を受け入れていく。まるで大地に飲み込まれるかのように。


 田中の姿は、静かに、第七層から消失した。

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