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冥府第四層。そこに落ちた魂は、すでに “人の形” を保ってはいなかった。
黒く絡み合う影。それは、無数の枯れ木だった。幹は歪み、枝は空へ伸びることなく垂れ下がり、葉は一枚もない。それらは、森と表現するには生命の気配が感じられず、厭世の澱が残るような場所だった。
その一本に、ユースフの魂は同化していた。魂の輪郭は、かつて淡い乳白色を帯びていたはずだった。だが今は、灰を溶かしたような鈍い色へと変質し、幹の内部に溶け込むように広がっている。ところどころに残る微かな光が、ここに “生きた意志” があった痕跡を辛うじて示していた。
枝の先には、いくつもの赤い実がなっている。不釣り合いなほど瑞々しく、淡い光を内包した果実。それは、ユースフの記憶の結晶だった。
幼い頃、撫でられた手の温かさ。好きだった母の料理。友と交わした何気ない会話。教室の窓から見上げた空の色。確かに存在していたやさしい時間。
その実を狙って、黒い影が舞い降りる。
冥府のカラス。羽毛は艶を失い、眼は濁った赤色をしている。鳴き声はなく、ただ羽音だけが森に不気味に響いた。
一羽、また一羽と枝にとまり、鋭い嘴で果実を啄む。
ぶちり、と実が裂けるたびに、ユースフの魂は震えた。声は出ない。叫びも、拒絶も許されない。ただ、記憶が奪われていく感覚だけが、幹の奥深くまで浸透していく。
果実を失った枝からは、黒い樹液のようなものが滲み出る。それは命を絶ったことで失われた希望の残骸だった。
この層に落とされたユースフに与えられた裁定は明確だった。
——不作為と自殺の罪。
抗う力を持ちながら、使わなかった。助けを求める声を、発しなかった。
死を選んだわけではない。だが、生きることを選び続ける意志を手放した。
その結果として、魂は木となり、残された記憶は実となり、生を肯定していた痕跡から先に喰われていく。
やがて、最後の果実が啄まれた時、母の面影すらも闇に溶けた。この魂は、完全な枯木となったのだ。
それでも消えることは許されない。命を投げ出した者は、生きた時間だけ “生きなかった理由” と共に在り続ける。
冥府第四層——放棄者の森。そこでは今日も、黒い羽音だけが、静かに響いていた。
***
足元が、音もなく崩れた。踏みしめていたはずの地面が、突然消失した。田中は反射的に腕を出し、第二層に留まろうとしたが、伸ばした指先には何の感触も返ってこなかった。
「く、黒木さ———ん!」
叫びは寸断された。横隔膜が押し上げられ、胃を圧迫する。第二層の光が一気に遠ざかり、すぐに見えなくなった。暗闇の中、ただ落下しているという実感だけ、自身への負荷によって理解できた。
しばらくすると方向感覚を失ったが、その後も暗闇に包まれたまま過ごし、次第に時間もわからなくなった。焦燥が去り、『いつから落ちている?』とふと我に返った頃、唐突に叩きつけられた。
「ぐあっ!!」
鈍い衝撃が全身を貫き、肺の空気が一気に押し出される。痛みは全身に広がり、骨がきしむような感覚がした。視界が光に照らされたように一瞬白くなると、端から徐々に黒く染まっていく。
——俺、死んだ?
一瞬そう思ったが、苦痛が、あまりにも生々しい。時間経過と共に意識が遠のく感覚と痛みから解放され、闇の中に周囲の輪郭を得始めた。
「……っ、が……」
呻き声を出すことすらやっとだった。田中は仰向けのまま息を吐き、必死に息を吸おうとした。空気はある。だが、何かが喉に絡みつき、呼吸のたびに妙な抵抗を感じる。
ゆっくりと、首だけを右に向ける。そこには地面があった。だが、見慣れた “それ” とはまるで違う。真っ黒な土と砂が混ざり合い、ところどころに赤黒い染みがこびりついている。錆びた鉄のような、鼻の奥に残る嫌な臭い。
腹に力を入れて起き上がるが、脚がすくんで立つことができない。筋肉が動かないというより、恐れが行動力を奪って、身体が言うことを聞かなかった。
「……ここ……どこだよ……」
返事はない。だが代わりに、遠くから聞こえてきたのは声だった。
「おぎゃぁ…おぎゃぁ…」「黙れ!」「お願いもうやめて!」
赤ん坊の泣き声。男の怒鳴り声。女性の懇願する声。
それらが混ざり合い、空間全体に響いている。どこから聞こえるのか分からないのに、迫って来る。耳元で囁かれているようでもあり、足元から這い上がってくるようでもある。
田中は思わず耳を塞いだ。だが、まったく意味がなかった。なぜなら、音は外からではなく自分の内側から響いている。
ふと視線を落とすと、地面に不自然な影が伸びていることに気づいた。自分の影だ。だが、形がおかしい。輪郭が崩れ、膨らんでいる。
そこで現状への理解が追いつく。ここが俺の行き先で、罪を清算するステージ。
喉がゴクリと鳴った。ミアスの宣告が、今さらのように脳裏で反芻される。
恐怖と加害。
田中は、震える指で地面を掴んだ。土は冷たく、ざらついている。確かな感触がある。それなのに、ここが現実であると認めたくない自分が居た。命ある身体で冥府を訪れてしまった故の恐怖が、孤独が、不安が、彼を蝕んでいた。
「おぃ……冗談だろ……」
呟きは、虚しく響く。その時、背後で何かが動いた気配がした。全身が凍り付いたように固まり、振り向くことは、まだできないでいる。
第二層では男が一人、言葉を続けていた。
「お前は殺していない。だが、生きる場所を奪った。ゆえに、奪われ続けよ。第七層——恐怖を与えた者は、恐怖の中で “限りある時間” を与えられん」
「む? もう一人は……八層に落ちていない? 邪魔が入ったか」




