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01

 安っぽい蛍光灯の光が、机に落ちる影を映していた。警察署の取調室で椅子に座っているのは、田中将。 両手を握りしめ、声を荒らげていた。


「だから、違ぇーって言ってんだろ!? あの廃ビルに変な暗闇の裂け目があって、ユースフが腰抜かしてたから連れて帰ろうとしたんだよ! そしたらアイツ、自分から中に飛び込んで行ったんだって! 何回言わせんだよ!」




***




 ユースフの母は、息子が帰ってこなかった翌日、警察署へ駆け込んでいた。目の下に深い隈を刻み、スマホを握りしめた手は何度も震えていた。


「息子が昨日の夜から帰ってこないんです! アルバイトが終わって、連絡も取れません。あの子、最近元気がなくて。いじめを受けてるんじゃないかって、そう思って聞いたんですけど……心配かけると思って私には言わなかったんじゃ……あぁ、こんな事になるってわかってたら、もっと早く——」


 窓口の警官は淡々と尋ねる。


「お名前と年齢は? 服装は? 最後に連絡を取ったのはいつですか?」


 母親の声から必死さが伺えても、淡々とメモを取る警察官の声は穏やかで、冷静そのものだった。


 情報に基づいて正午過ぎに、コンビニ近くの監視カメラ映像が確認された。店の外、ユースフが四人の男の後ろを追って歩いている。先頭に田中将の姿が確認された。


「任意で、少しお話を聞かせてください」


 将を含めた悪友達は、半ば強引に署へ連れてこられていた。




***




「コン…コン…コン」


 乾いたノックの音が取調室を叩いた。将の事情聴取を行っていた警察官が一旦席を外し、ドアの外を見やってから将に言う。


「あ! ちょっと待ってね。担当の刑事さんが見えたから、また説明をお願いしてもいいかな?」


「誰が来ようと話は変わらねーよ! 来る奴、来る奴皆に何回同じこと言えばいいんだよ! あいつが一人で飛び込んでいったんだ! いい加減しつけ―んだよ!!」


 興奮気味に叫ぶ声が、狭い取調室の壁に反響する。


 その直後、取調室の扉が開いた。ひとりの男が挨拶もなしに、薄気味悪い気配とともに入ってくる。黒髪を無造作に撫でつけ、細身の黒いジャケットが痩せた身体に妙に馴染んでいる。


 男は、壁際の机の端に寄りかかって立ち、ポケットから煙草を取り出して火を付けた。その煙を将へと向かって、ため息をつくようにゆっくりと吐き出し、ただ煙草の先を見つめていた。


 将は叫んだ。


「誰だよお前! なんとか言ったらどうなんだよ!!」


 しかし、その刑事——黒木くろき真也しんやは反応を示さない。煙草を燻らせながら薄く開けた目を将に向ける。


 将は、今までの警察官とは違って何も話さない刑事に、自分がこれまで話してきた内容が信じてもらえていないだろうと感じ、苛立ちを募らせた。さらに声を張り上げる。


「黙ってんじゃねぇよ! 話は聞いてんだろ? 俺の言っている事が嘘だと思うんなら、お前をそのビルに連れて行ってやるよ! ビビッて逃げるんじゃねぇぞ、このクソ刑事!」


 だが、黒木は眉一つ動かさず、タバコの煙をゆらりと吐きながら、微動だにしない。


 その無言の圧に、将は息が詰まるような思いを感じる。


(なんで黙ってんだ? 煙草なんか吹かしやがって。普通、禁煙じゃねぇのかよ……?もしかして “やばい” 奴なのか……?)


 長い沈黙が続いた。時計の針の音すら、やけに大きく響く。黒木が煙草を吸う音だけが、互いの距離を計るように響いていた。


 将は、口を開こうとしてやめた。何か言えば、その瞬間、空気が壊れる気がした。沈黙が長くなり、徐々に興奮から冷め、部屋の温度が下がっていくような錯覚がしていた。気づけば、自分の胸の動きまで、黒木の呼吸に合わせられている。


 ——支配されている。そんな実感が肝を冷やした。


 その時、黒木は将にゆっくりと近づき、鋭い目で将を睨みつける。 


「現場じゃ、初動捜査で警察と鑑識がすでに動いている。すでに俺も一度行ったが、あのビルに暗闇の裂け目なんてものはなかった」


 マルボロの匂いが取調室の空気をさらに淀ませる。


「ユースフが入った後、消えちまったんだって! 俺は嘘なんかついてねぇよ!」


 再び沈黙が取調室を包む。


「信じてくれ……本当なんだって……」


 徐々に田中の言葉が小さくなっていく。先ほどまでの威勢は、もうどこにもなかった。


 黒木が口を開く。


「そうだな……なら、あいつ……ユースフが “誰に” おびえてたのか、言ってみろ。いじめてたんだろ? お前ら四人で」


 将が言葉を詰まらせる。視線が泳いだ。黒木はその反応を見逃さない。


「……なぁ、ガキ。警察署ここのルールは知らねぇだろ? 黙秘めんどくせぇことすると容赦しねぇぞ。さっさと言え」


 机を拳で叩くでもなく、声を荒げるでもなく、ただその鋭い目つきと、低く抑揚を殺した声が、将の心を締め上げていった。黒木の取り調べに、将は自身がこれまでユースフにしてきたことを、少しずつ語り始めていた。




***




 隣室の隅、観察窓越しに数人の警官が控えていた。課長職の一人が小声でつぶやく。


「……やっぱり “あいつ” を出すと、こうなるなぁ」


 誰も止められない。止めようとすれば牙がこちらに向くのを知っているからだ。


 取り調べ室の外、廊下に立つがっしりした体格の警察官が、聞き耳を立てながら様子を伺っていた。若手の彼は、このやや暴力的な取り調べと黒木の振る舞いに、時代錯誤を感じ、室内から漏れる緊迫した声に眉をひそめていた。声の主は田中将だ。必死に説明しているものの、その前で黒木真也が睨みをきかせている。


「……ちょっと……あの刑事、やりすぎじゃないでしょうか……?」


 若手はため息をつきながら無線で上司に相談した。


「……あぁ。やめておけ。あいつには関わるな。それがお前のためだ」


 無線の向こうで上司の低い声が返る。


「何故です? もしかして……すごい腕利きの刑事さんだからですか? そんな事に屈しませんよ、私は」


 若手はつい自信と好奇心が先走り、廊下の端で少し胸を張りながら話す。


「いいから余計な詮索はやめろ! 無駄なことにエネルギーを使うな。あいつはそういう奴なんだと、ただ距離を置けばいい」


 上司の声には、説得というよりも警告の響きがあった。


 若手は無線を握り直し、息を飲む。室内に感じる圧力、声に出さずとも相手の動きを掌握する冷徹さは、確かにただの刑事の域を超えていた。


「距離を置く……か」


 そう呟き、若手は自分の席に戻り、取り調べ室のドアの向こうにある、異様な光景を思い浮かべた。




***




 将の耳元で黒木が囁く。


「もう帰っていい。手筈通り明日の零時、現場に来い。お前の家は覚えたからな」


 黒木の声は、まるで自販機で缶コーヒーを選ぶときのように無感情だった。


「はい……」


(なんだよ!? こいつ、ガチでヤバい……発言内容が刑事のそれじゃないだろ? そもそも高校生の深夜外出は条例違反だぞ)


 将は取調室の外に出る際、ドアが異様に重く感じられた。ゆっくりとドアを閉めると無意識に息を吐き、固くこわばっていた肩を落とした。


 ——やっと終わった。そう思った瞬間、なぜか全身の毛穴が一斉に開くような感覚に襲われる。


 廊下の空気がやけに冷たいが、空調のせいではない。まだ “あいつ” の視線が背中に突き刺さっている。まだ黒木は取調室に残っているはずなのに、目に見えない何かが、廊下まで追ってくるような気がした。


 将は反射的に振り返った時、思い至る。自分が緊張していた理由を若干取り違えていた事に。


 それは、単に取り調べを受けていた状況からではない。自身を圧倒していたのは、あの黒木という刑事の存在そのものだった。


 取調室の中では、黒木が繰り出す暴言や威圧にも、どこか秩序の枠があった。一見非常識でも、“警察署内” “仕事中” という点で最低限の制御は存在する。


 だから将にとっては、取調室はある意味 “安全地帯” だった。


 黒木の予測不能な行動を、将は肌で思い出す。署内でさえ、常識を逸した振る舞いを見せる黒木。そしてそれが許されている現実——外に出たら、一体何をされるかわからない。


 その事に気づいた将は、全身の筋肉が一瞬硬直し、足元から背筋まで悪寒が駆け抜けた。無意識に肩をすくめ、息を整えようとしたが、今夜迫り来るであろう恐怖の重みは、呼吸のたびに心音を響かせるだけだった。

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