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02

 夜の警察署を出た黒木は、街灯に照らされたアスファルトを踏みしめながら、頭の奥では別の光景が反芻されていた。


 ——腐った弁当めしを、食わせた。


 田中から聞き出したユースフへのいじめの内容。その中でも、ひときわ胸に引っかかって離れない行為だった。単なる悪ふざけで済まされる話ではない。人の尊厳を、意図的に踏みにじる行為。


(さて……)


 消息のつかめないユースフを思うと、田中の行動に怒りを覚えたが、黒木の思考は冷えていた。感情のままに殴るのは簡単だ。だが、それでは意味がない。相手の記憶に残り、二度と忘れられない形で……


 そのとき、一つの考えが頭をよぎった。黒木は進路を変え、繁華街の外れへと足を向ける。




 雑居ビルの一階、色褪せた鉄製の看板に、無骨な英字で一言だけ刻まれている。BARROWバロウ 爬虫類ショップ——通称、レプ屋。以前から世話になっている店だった。


 閉まりかけたシャッターを上げると、中の灯りが見えた。表向き営業時間は終了しているが、常連は店長が夜行性なのを知っている。入口の扉を押し開けると、独特の空気が肌にまとわりつく。わずかに湿り気を帯びた、生き物と床材の匂い。店内は決して広くないが、壁一面に並んだケージが圧を放っていた。


 まず目に入るのは蛇。ボールパイソンやコーンスネークが、とぐろを巻いて静止している。


 その隣には、ガラス越しに張り付くようなレオパードゲッコー。橙や黄色の体色が、やけに鮮やかだった。ヤモリ類が多く、吸盤状の指先がガラスをきしませる音が、かすかに響いている。


 奥の冷凍ケースには、餌用のマウス。ピンクマウスからアダルトまで、サイズごとに整然と並び、別の棚には生き餌のコオロギやミルワーム。


 そして、黒木の目的のもの——ケースの中で、黒い影が忙しなく動いていた。


「真也ちゃ~ん、久しぶりね~!」


 店の奥から、甘ったるい声が絡みつくように響く。振り返ると、店長の 大輔だいすけ が満面の笑みで近づいてきた。派手なシャツに、よく手入れされた爪。口調は軽やかで距離が近いが、商売には抜け目がない。


 黒木は表情を変えず、用件だけを切り出す。


「生きのいいヤツが欲しい。何匹か寄こせ」


 大輔は一瞬目を瞬かせ、すぐに楽しそうに声を上げた。


「ヤダァ、真也ちゃん。生きのいい、なんて珍しいじゃない? どうしたの急に? また新しいペット、見つけちゃったわけ~~?」

「まぁ、そんなとこだ」


 素っ気なく返す黒木に、大輔は意味ありげな笑みを浮かべる。


「生きのいい、ねぇ……。だったらさ、せっかくだからぁ~~ “現地調達” とかどう? いい仕掛けがあるのよ。ちょっと待ってて!」


 返事を待つこともなく、大輔は店の奥へ小走りで消えた。


「……まだ何も言ってねぇよ」


 黒木がぼやく間もなく、ビニール袋を抱えて戻ってくる。


「はいっ! 特別サービス!! このケースに、これ入れて——」


 大輔はプラスチックケースを掲げて、畳みかけるように話す。


「餌はこれ。あと、ピンセットもあげる! 真也ちゃん、使うでしょ? ドッグフード砕いたやつと、ちょっと甘い匂いのするペーストをここにセッティング! この時期ならぁ~~暗いとこに置いて、ライトでも当てとけば一発よっ!」


 自慢げな説明を遮るように、黒木はケースを受け取った。


「そうか。それじゃ、これもらっていくぞ」


 そう言ってそのまま踵を返す。


「もう! ほんっとにそっけないんだからっ!! でもそういうとこ、嫌いじゃないけど♡ 代金はいいわ。土産話……お願いね!」


 出口まで見送りながら、大輔は声を張る。


「あ、でもね! 当然わかってると思うけど、大事なペットに食べさせちゃぁダメよぉ~~! 防腐剤とかのリスクあるからね!」


 扉に手をかけた黒木は、短く答えた。


「あぁ」


 夜の空気が、再び身体を包む。背後で扉が閉まり、ネオンの灯りが滲んだ。黒木はビニール袋の感触を確かめるように握りしめ、静かに歩き出した。




***




 将は鏡の前でしばらく立ち尽くしていた。制服で行くべきか、それとも私服にするべきか。黒木と会う——それだけで十分に脅威だった。


 制服では「学生」のままで補導の対象だし、私服では「場違いだ」と思われるかもしれない。思考がぐるぐると同じところを回る。


 やがて彼は、クローゼットの中から白い半袖シャツを取り出した。清潔で、どこか無防備な色。下は紺のスラックス。目立たず、静かな印象を与える。金属製バックルのレザーベルトを締めた後、鏡に映る自分を見て少しだけ息を吐く。


「……まあ、これくらいがいいか」


 いつもの彼にしてはずいぶんと控えめな装いだった。だが、その夜に向かう足取りは、服装とは裏腹に重く、心許なかった。




***




 深夜、廃ビルの前。時計の針が十二時を指すころ、街はすでに眠りにつきつつあった。


 遠くでかすかに犬が吠え、ビル風が生い茂る蔦を揺らす音が響く。将はポケットに手を突っ込み、何度もスマホを見た。もうすぐ約束の時間。黒木はまだ来ない……いや、来なければいいのにと思っていた。


 鑑識が引き上げたあとの路地は、人の気配がすっかり消え失せている。ひとりで待たされる将は、ぽつりとその場に立ち尽くす。


 立入禁止のテープが剝がされた支柱だけが、そこが “何か” の現場だったことを辛うじて物語っている。足元に残るチョークの白線を見つめながら、将は知らず知らずのうちに息を潜めていた。


 もうあの暗闇は消えたはずなのに、まだ何かがここにいるような気がする。そんな錯覚を振り払おうと顔を上げたそのとき、路地の奥から靴音が響いた。


 黒木だった。ゆっくりと、無言で将に近づいてくる。そして挨拶ひとつせず、ただ短く言った。 


「さっさと行くぞ。まずはお前らのたまり場から」


 将はぎこちなく頷く。黒木のタクティカルライトの明かりを頼りに、二人はビルの中に足を踏み入れる。真夏だというのに空気は冷えていて、足音が反響してすぐ近くで響いた。階段を上がり、埃の溜まった室内へ向かうと、いつもの “たまり場” が見える。傾いたソファ、ドラム缶、散らばった缶コーヒー。そこに残る匂いは、吸い殻と酒とカビと——事件の残滓をどこか含んでいるようだった。


 黒木は煙草に火をつけた後、目だけを室内に走らせ、問いかけるように低く言った。


「ここでユースフに腐った飯を食わせたのか?」


 将は咄嗟に言葉を失い、視線を落とすように頷いた。黙り込むその様子を、黒木は一呼吸置いて眺めてから呟いた。


「まあ、“今は” 関係ねぇが」


 そしてゆっくりと将を見据え、口調を戻す。


「お前はここに座り、ユースフを隣室に向かわせた。暗闇に怯える様子でも、見たかったのか?」


 将は固まったまま、かすかに頷いた。身体が鉛のように重い。黒木は目を細め、次の指示を吐き出す。


「度胸試しにもならねぇが……俺がここで待っててやる。荷物はここに置いて、隣の部屋でしばらく過ごせ」

「嫌ですよッ!!」


 将の声が必死さに震える。


 拒否の意思は明確だった。だがその声はすぐに制された。タクティカルライトの白い閃光が将の両眼を照りつけたからだ。


 光は強烈で、瞬きしても残像が網膜に貼りつくように残る。瞼の裏で黒い斑点が踊り、世界が一拍遅れて明暗する。


 将は咄嗟に口を開けて何かを叫ぼうとしたが、声が出てこない。光のせいで視界を奪われ、呼吸のタイミングが合わなかった。


 黒木は変わらない。冷たく、淡々と、日常の雑事を伝えるような調子で言う。


「次にでかい声出しやがったら、容赦しねぇぞ——早く行ってこい」


 その一言が廃墟の空気を一層重く落とした。将の心臓が喉元まで跳ね上がるのを、彼自身が感じた。周囲に助けはない。黒木の手の中にあるのは、言葉だけの暴力ではない。それに、何をしてくるかわからない不確定な要素も含まれている。将は、抵抗する気力を失った。何も起こらないことを願いながら、ゆっくりと隣室へ向かった。


 廃ビルの内部は、さっきよりもさらに静けさで満ちていた。黒木は部屋の隅に大輔から渡されたプラスチックケースを置き、ライトを当てた。“ワンウェイトラップ” 入れば最後、そこから出ることはできない。


 しばらくすると、その中で、何かがカサリと音を立てた。




***



 

 将は隣の部屋でじっと時間を過ごしていたが、何も起きはしなかった。やがて、遠くから足音が聞こえ、黒木が戻ってきた。


 黒木は廊下の影から現れると、ゆっくりと将を見下ろして言った。


「暗闇の裂け目ってのは、なかったみたいだな。じゃあ次。いったん戻るぞ。面白いものを見せてやる」


 たまり場に戻ると、将にはローテーブルが目に入り、ケースが置いてあるのが分かった。黒木は背後から無言で将に近づき、命じるように言った。


「両手を後ろで組め」

「え?」

「早くしろ」


 将が応じると、黒木は淡々と動いた。将の背後で冷たい金属がこすれる音——手錠が用意され、将の手首を縛りつける。


「なっ! 何すんだよっ!!」


 将は押さえつけられ、床に転ばされた。黒木は丸椅子を持ち上げ、将の四肢の動きを遮るように椅子の脚を配置したあと、その椅子に腰かける。逃げ場は完全に塞がれる。


 黒木は椅子の上から顔を覗き込み、飄々と話しかけた。


「お前、あれ……好きだろ?」


 その声には嘲りが混じっている。将は目を見開き、黒木は続ける。


「エビみたいな味がするらしい。まぁ、羽に限った話のようだが……お前を待ってる間、準備しておいた。遠慮はいらねぇ。獲れたて新鮮、踊り食いだ」


 言葉が廃ビルに溶け、将の背筋に悪寒が走った。唾を飲み込む音さえ大きく、床の埃が微かに舞う。将は戦慄した。目の前の光景、黒木の落ち着いた仕草、そして自分を上から押さえつける圧力。すべてが逃れられない現実を突きつける。


 黒木はケースの中身を見せることなく、ただニヤリと笑った。


 将はその笑みに、言葉ではない恐怖を感じた。


「やめてください。お願いします。お願いします。ごめんなさい。許してください」


 酸欠で将の視界の外縁はゆっくりと暗くなっていき、耳に自身の鼓動が反響する。


 黙っている黒木を相手に、将は繰り返す。「やめてください、お願いします、ごめんなさい」声が裏返り、緊張で張り付いた喉の奥がヒリヒリと痛んでも、ままならない呼吸の中でも、懇願し続ける。


 黒木はそれを見下ろしながら、“うるせぇな” といった様子で顔を顰めた。再びタクティカルライトを将の眼球目掛けて当て続けた後明かりを消すと、周囲を暗闇が覆った。


 声を潜め、囁くように黒木は言った。


「お前、ユースフには食わせてたんだろ? 腐ったもんを。……なら、自分でも味わえ。どんな気分なのか。まぁ、“こいつ” は新鮮そのものだが」


 黒木の声がやけに静かで、妙に近く感じた。右耳の傍で、何かが “かさり” と音を立てる。音は一度だけではなかった。耳の奥で増殖するように、何度も。


 ワンウェイトラップ(プラスチックケース)の中では、カサカサ…カリカリカリ…と、乾いた音が絶え間なく響く。壁にそれらがぶつかるたび、微かにパチンと跳ねるような音がして、それがまた仲間を刺激するのか、中の動きが一層せわしなくなる。無数の脚が擦れ合い、外殻と外殻がこすれ、奇妙なリズムが生まれる。


 カリ…カサ…カッ、カッ、カサ、カリカリカリ——。


 再びライトが点灯し、ケースが照らされる。将の顔の真横で沢山の触角が揺れているのが分かった。


 黒木がケースの引き出し(分室式ドロワー)を引くと、カチリと小気味よい手応えが返った。透明の窓に孤立した影が一匹、ゆらりと見えた。


 将は必死で首を捻り、体を捻った。息が浅くなり、空気が喉に届かなくなった。油ような匂いが鼻を刺す。それが何の匂いなのか、将にはもう考える余裕がなかった。


「お、こいつは当たりだな。卵付きだ……おい、動くなよ」


 次の瞬間、暗闇のようなものが口元に押し寄せ、唇を這い回る感触があった。身を捩って抵抗するが、呼吸が裏返り、うまく体が動かない。息苦しくなり無意識に口が開く。何かを歯の間からねじ込むように無理やり中に入れられ、暴れ、そして静かになった。生の草と落ち葉のような香り。ナッツに似た甘みと、苦味が混ざる。


 黒木の声が響いた。


「……丸飲みかよ。ハハハッ。よく噛んで食えよ」


 将は口に入れられた何かを吐き出そうとした。だが、抵抗によって肺はしぼみきっており、息を吐くことも、泣くことも、叫ぶこともできない。ただ、響きだした耳鳴りの向こうで、黒木がケースの引き出しを引いて “次” を準備する音だけが聞こえる。将はそこで意識を手放した。


 その時、突然ビル全体がひやりとした空気に包まれ、黒木は動きを止めた。


「ん? なんだ?」


 周囲の空気に “異物” が混じった気がした。見えない何かが、こちらを覗いている。そんな感覚だった。

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