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社会科の教員が壇上で白いチョークを持ち、黒板を軽く叩いた。
「『目には目を、歯には歯を』」
静まり返った教室にその言葉が響き、何人かが顔を上げる。教員は続けて、キュッとチョークを滑らせた。
【ハンムラビ法典】
「 “ハムラビ法典” とも言います。これはメソポタミア文明——古代バビロニアで編纂された法典で、加害者が与えた被害と同等の罰を受けるべきだ——という “同害報復” の考え方が示された代表的なものです。犯罪の抑止を目的とし、当時としては非常に合理的な仕組みでした。ただ実際には、身分ごとに賠償額を定めた “等価回復” の原則であり、報復心を制限する仕組みになります」
クラスメイトたちのほとんどは、ただ黒板を見つめた後、教科書をめくるだけだったが、黒木の胸にはその言葉が鋭く突き刺さっていた。
( “同害報復” ……なんだ、そうじゃないか。古代の人間でさえ、犯罪を止めるためにこんな単純でわかりやすい方法を採っていた……)
黒木は唇を噛む。胸が高鳴り、喉が焼けるように熱かった。
(だったら俺は、姉を殺した犯人を見つけ出して、ぶっ殺してやればいい)
その瞬間、教室のざわめきが遠のいた。ただ黒板に残る白い文字だけが、黒木の視界の中心に居座っていた。
それから黒木は目標を見据え、まるで息を吹き返したような日々を送るようになった。これまで曖昧だった毎日の輪郭が、はっきりとした線となって明確な意思を持つ。
授業では以前よりも貪欲に教員と向き合い、ノートを取る手は必死にみえるほどだった。
(犯人を捕まえるためには、自分が賢く、強くならなくてはならない)
そう考えた黒木は、不純な動機だとどこかで分かっていながらも、これまで家庭の事情を理由に避けてきた部活動への参加を始めた。
選んだのは剣道部。道着に身を包み、ただ黙々と竹刀を振り続ける日々が始まった。打ち込むたびに、胸の奥で燻っていた怒りが鋭く形を変え、昇華されていく。
(強くなってやる。もう、弱音は吐かない)
目指すものが定まったことで、黒木の中学生活は、確実に軌道を変え始めていた。
***
回想の光景が、ぱきん、と砕けるように消えた。耳鳴りと闇が退いていく。黒木は、意識を “過去” から引き戻された。周囲の様子は、訪れていた冥府そのものであったが、リュッサやツゲ、田中の姿は見えない。まだ精神世界から帰還できたわけではなさそうだった。
「……チッ。嫌なもん見せやがって……どういうつもりだ?」
その声は落ち着いていたが、黒木は苛立っていた。肩はわずかに上下し、呼吸が荒い。額には汗が滲み、無意識に握りしめた拳は爪が食い込むほど力が入っていた。
「人の過去を勝手に覗き見やがって……」
黒木が言い捨てたその瞬間、ズン……と周囲の空気が重く沈み込む。冥府特有の灰色の空が裂けるように波打った。
思わず眉をひそめる。何かが近づいてくる。大気そのものが迫ってくるような、言葉にできない圧迫感だった。
空気が張りつめ、空から地面に淡い光の筋が差し込んだ。光の先から黒い霧が発生し、その中心で人影がゆっくりと形を結び始める。
「なんだ……?」
黒木の足元に霧がまとわりつく中、前方に誰かが “立っている” 気配が感じられる。
やがて霧が裂け、そこから現れたのは、人とはつかぬ存在だった。
身体は半透明の硝子。内部では黒い液体が、心臓の鼓動のようなリズムで太い管をゆっくりと巡っている。まるで砂嵐のような、「ザァーザァー」という音を伴って。その規則的な流れが、こちらの心拍に合わせられている錯覚すら覚えた。
「……黒木真也」
声はひとつではなかった。低音と高音が複数重なり、少し遅れて反響する。白い陶磁器のような仮面が、こちらへと向けられる。仮面の中央には、縦に一本亀裂が入っている。体からは絶え間なく黒い霧が漏れ、霧散していく。
「余はクルーエル・イフ。 “真価” を測る者」
三つの声が重なって響いた。クルーエル・イフの背で黒い霧が巨大な翼となってふわりと膨らむ。漂うように揺れ、さらに周囲の霧を吸い寄せる。三対の翼の先端が指先のような形状になった。
「ひとつ……」
ひび割れの奥から、黒い霧が強く漏れた。
「そなたは、その選択を “誰のため” だと思っている?」
声が響き、体内の黒い液体はリズムを刻むようにどくどくと脈打っている。
「それが、そなたの堕ちる方向を示すのだ」




