13
それは、新しい家の暮らしにも慣れ始めた四月。冬の名残をわずかに引きずりながらも、日差しは柔らかく、ひんやりとした風が二階の窓を抜けていった。
休日だった真也は窓辺から沿岸にある、古い灯台小屋の屋根に停まっているイソヒヨドリのオスをじっと見つめ、スケッチブックに鉛筆を走らせていた。
鮮やかな深い青の羽と、煉瓦色にも似た赤い腹のコントラスト。その体色はカワセミほど鮮やかではないが、少し大柄な体つきと独特の声が加わると、まるで別種の美しさをまとっているように見えた。真也が最近もっとも好んで観察していた鳥だった。
そのイソヒヨドリが、突如として 「ピュルルッ」 と鋭い声をあげ、海の方へ向かって大きく羽ばたいた。鉛筆が紙の上で止まり、真也は窓の外に消えていく青い影を追ったが、水平線へ向かってどんどん小さくなっていく。
——そのときだった。一階から、姉の声がしたような気がした。
「真也」
呼ばれた気がして耳を澄ませる。しかし、家の中は奇妙な静けさに包まれていた。さっきまであったはずの生活音が、すっと引いていくように感じられる。
ガタガタと風が窓を揺らす。すると、遠くで車のエンジンがかかる音がした。真也は何気なく視線を下へと送ると、黒いワゴン車が沿岸の道路に出てきていた。
見慣れない車だった。妙にゆっくりと海沿いを進んだあと、やがて山へ向かって走り去っていく。
真也は胸騒ぎを覚えたが、言葉にする前に飲み込んだ。新しい家で暮らしはじめて以来、姉とは時間を共有することが少なくなっていた。嫌な予感を抱えたまま動かなかったのは、そのわずかに開いた距離のせいだったのかもしれない。
その後、姉の澪の行方がわからなくなった。
「ねぇ真也、澪が帰ってないみたいだけど、知らない?」
気づいたのは、仕事から帰宅した母だった。玄関に並ぶはずの二足目の靴がないことに、母は一瞬だけ戸惑いを浮かべた。しかし、その小さな違和感は、真也に澪の行方を尋ねた瞬間、確かな不安へと形を変えていた。
真也は説明する。澪の声らしきものが一度だけ階下から聞こえたこと。それ以降、家の中は妙に静かだったこと。沿岸の道を走り去る黒いワゴン車を見たこと——そして、それが山の方へ向かっていったこと。
母はただならぬ気配を感じ取り、すぐに捜索が始まった。近所や友人への連絡。タクシードライバーへの聞き込み。警察への捜索願い。たった数時間前まで、いつもと変わらぬ日常の中にいたはずの澪を探す。父も合流し、家族総出で手当たり次第に動き回った。
優しかった姉。いつも真也の相手をしてくれた、少し大人びていて、だけど無邪気な姉。
母とはまるで親友同士のように仲が良く、台所やリビングから聞こえる笑い声は、真也にとって家のぬくもりそのものだった。
最近は父に対して反抗的な態度をとることも増えていた。思春期といえる距離の取り方ではあったが、それでも趣味の映画の話になると、二人はまるで昔に戻ったかのように語り合い、自然と笑い合っていた。
——澪は絶対に無事だ。きっと生きている。
その希望だけが、崩れ落ちそうになる心を辛うじて支えていた。家族三人は夜を徹して探した。真也も、幼いながらに持っていた鋭い視力を頼りに、暗い山肌や木々の影のひとつひとつを必死で追った。
そして——ふと、真也の目がある一点で止まった。木々の奥、薄い霧のようなものがたなびく山中の窪み。明らかに自然の影とは異なる、人の気配が滞留している場所があった。
胸の奥が、凍り付いたように冷たくなる。真也は無意識にそこへ足を進めていた。草をかき分け、一歩、また一歩と踏み込んでいく。
懐中電灯の光を当てると、その窪みの中に、動かない “何か” が横たわっていた。
「……ぁ」
息が詰まった。顎が震え、声にならない音が漏れた。
風に揺れて僅かにのぞいた髪。暗闇でもわかる。見慣れた、夕陽の下でいつもきれいに光っていたあの髪。
——姉だ。
それは、無残な姿で横たわった澪の遺体だった。
時が止まったようだった。世界の色が、音が、空気が、真也の周囲からすべて消え去っていった。まるで、潮が引いていくかのように。
——この瞬間を境に、世界の色は戻らなくなった。
家に戻ったその日から、空気は凍り付いたまま。母は声をあげて泣き崩れ、父は拳を握ったまま、ほとんど何も言わなくなった。
暖かかった家族の食卓は彩を失い、食事には誰も手を付けることを望まない。そんな場所になった。
真也は自室の窓にカーテンをしたまま近づかなくなった。以前は鳥の影が見えるたびに胸が躍り、スケッチブックを開いた。しかし今はそのすべてが、姉の “最期の日” につながっている気がした。
窓からの景色は非情にも、澪がいない現実を突きつけてくる。
なぜ姉が死ななければならなかったのか?
——理由などない。偶然か、誰かの悪意か、気まぐれな運命か。
それでも、真也の心はそれを許さなかった。求めても答えはなく、問いだけが心の中で凶暴に育っていく。
真也は姉の “存在した証” を拾い集めるように、家の中を歩き回った。箸やお茶碗、お気に入りの木製のスプーン。そして、制服やパジャマなどの衣類を抱きしめた。しかし新しい家には、澪の匂いも、気配の余韻も、多くは残っていなかった。
姉とこの家で過ごした時間は少なかった。だから真也は、両親へ縋るように願った。
「前の家に、戻りたい」
姉と笑い合い、喧嘩し、並んでテレビを見ていた。そんな日常が確かにあった場所へ。
だが、そこにはすでに他人の生活があった。
ドアから覗く靴箱にも、庭にも、姉の影は微塵も残っていないのだ。
姉の気配を探すこと自体が間違いだったかのように、世界は冷え切って感じられた。その温度を失った世界の中で、家族はゆっくり壊れていった。
父は仕事もままならなくなり、母は日に日に痩せていった。食事の匂いのしない台所、光の入らないリビング。そのどれもが「澪のいない世界」。
——そして、ある日。
真也には首を吊った両親の無言の背中と、震える字―—母の筆跡で書かれた遺書が残されていた。
「真也、ごめんね。あなたを一人にしてしまうことだけが、本当に心残りです」
紙面に滲んだ涙の跡だけが、母が最後まで黒木を思っていたことを物語っていた。
黒木は声すら出せず、ただ呆然とその文字を見つめ続けた。気づけば、完全にひとりになっていた。
中学生になる春、黒木は伯父夫婦に引き取られることになった。本来なら施設に送られてもおかしくはなかったが、「あの子は私たちで」と手を挙げてくれたらしい。
伯父夫婦には子どもがいなかった。父が健在だったころから、澪と真也のことをよく可愛がってくれていたのを、真也は覚えている。正月や盆に顔を合わせるたび、菓子や玩具を手渡しながら、少し照れたように笑う人だった。
自宅で執り行われた両親の葬儀では、伯父が喪主を務めた。黒い喪服に身を包み、焼香の列を静かに見守っている。読経の低い声が流れる中、真也は伯父の姿を視界の隅に捉えたまま、水槽の中を漂う金魚を見つめていた。透き通った水の中で、魚は必死に口を動かしている。
真也もまた、ここが水中であるかのように息苦しさを感じて、目を瞑った。そのとき、澪の葬儀の光景が、不意に脳裏に割り込んできた。
棺の前で、父と母が泣き崩れる姿。声にならない嗚咽。母が何度も澪の名を呼び、父がそれを押し殺すように肩を抱いていた。あの光景は、時間の流れとは無関係に、唐突に現れては真也の心を絞めつけていた。
葬儀が終わり、伯父の家へ移る日。迎えに来た車を見た瞬間、真也の足が止まった。黒いワゴン車だった。澪が連れ去られたとき、窓から見下ろした車とよく似ていた。
息が止まり、体の奥から冷たいものが這い上がってくる。全身に悪寒が走り、意識が遠く不確かになった。真也は暗くなっていく視界に、必死に抗いつつ、車体の側面を凝視していた。
黙っている真也に、伯父はハンドルを握ったまま、窓を開けて何でもないことのように口を開いた。
「今までは、私と妻の二人だけだったからね。大きな車は必要なかったんだが……これからは真也君もいる。荷物も増えるだろうし、安全な方がいいと思ってね。まだ運転はそこまで慣れていないが……まあ、そのうちだ」
助手席の伯母も、小さくうなずいた。
「狭いよりは、落ち着くでしょう?」
淡々とした声だった。取り繕うわけでもなく、言い訳めいた様子もない。
車は静かに走り出した。窓の外を流れる景色を見ながら、真也は唇を噛む。
(……そうか)
伯父は、澪が連れ去られたときのことを知らなかったのだ。“黒いワゴン” が、どんな意味を持つのかを。
胸の奥で、別の声がささやく。
(本当に、知らなかっただけ?)
感謝と疑念が、同時に湧き上がる。伯父夫婦は俺を引き取ってくれた人、守ろうとしてくれた人だ。それでも、黒い車体を見るたびに、脳裏には澪の姿が重なる。
真也は何も言えず、ただシートに深く身を沈めた。黒いワゴンは、静かな住宅街へと向かっていく。
新しい家、新しい学校、新しい同級生。だが、黒木の心はなにひとつ “新しく” なれなかった。
リュッサの試練の中で、そのすべてが黒木の胸に蘇ってくる。
押し殺してきた苦痛、答えの出ない問い、時間とともにさらに厚くなった心の壁。それらが黒木の精神世界を圧迫していた。
逃れられない苦しみとの葛藤。これは単なる過去ではなく、もはや黒木の “存在” そのものとも言えた。
そして黒木は、怒りと悲しみを抱えたまま、出口の見えない日々をさまよっていた。
“この苦痛から解放されるには、どうすればいいのか”
助けを求めたくても、頼れる相手などどこにもいない。ひとりで耐え、ひとりで戦い続けるしかなかった。眠れない夜が続いた。まぶたを閉じれば、あの日の光景がフラシュバックする。姉の笑顔がよぎるたび、胸の奥で怒りと悲しみが増幅し、黒木を苦しめる。穏やかな家庭は踏みにじられ、愛した家族はみな、無残にこの世から奪われた。
“自分は、どうすべきか”
その答えが自身の中でぼんやりと輪郭を見せ始めていた頃、授業中にひとつの考えへと至った。




