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「……田中さんの精神は、すでに内界へ入りました」


 リュッサが冷静に告げる。声には、どこか慈悲のようなものが感じられた。


「これから彼は、自らの “過去” と向き合うことになります」


 黒木はリュッサに尋ねる。


「俺も、こうなるのか?」

「あなたの魂は彼とは異なる形で歪み、異なる形で揺らいでいます。試練の内容も、困難も、深度もまったく違う。乗り越えられるかどうかは……あなた自身の覚悟によるでしょう」


 黒木はその言葉に反応を示さず、座ったまま硬直した田中の顔をじっと見つめていた。さっきまで普通に会話していたはずが、いま目の前にいる田中はまるで別人だった。まぶたは半ばまで開き、瞳孔はどこにも焦点を合わせることなく宙を泳いでいる。呼吸も浅く、気配すら薄い。生きているのか分からないほど静かだった。


 魂だけが何処か遠い場所に旅立ってしまったような、そんな危うさがあった。だがその虚無の眼差しに、ゆっくりと変化が生まれる。


 深い底に沈んでいた意識が、水面へと浮き上がってくるように。そして、「体温」が戻ってくる。そんな穏やかで自然な変化だった。


 すると、田中の指がぴくりと動き、誰かに肩を大きく揺さぶられたかのように、はっと顔を上げた。一瞬、パニックになった子どものような表情を浮かべ、きょろきょろと周囲を見渡す。その表情は、現実へ引き戻されたばかりの、人間の素顔ともいえた。


 その様子を見て、リュッサは静かに手を下ろし、穏やかに微笑んだ。


「どうやら、うまく乗り越えられたようですね」


 その声音は、試練を与えるものとしてではなく、どこか母親のようなやわらかさを含んでいた。


 田中はリュッサの問いに頷いたあと、胸の前で両腕を抱きしめるようにうずくまった。しばらく黙ったまま、ただ地面を見つめていたが、やがてぽつりと呟く。


「……俺、ずっと、気付いていなかった……」


 その声は震えていた。幼いころの恐怖。父親の荒れ狂う怒声。拳の重さ。知らないうちに、怯えた記憶を覆い隠すようにして生きてきた日々。


 それらすべてが、彼の内側で再生され、そしてようやく結びつき、理解に変わっていく。


 自分がユースフに向けた暴力。その根底に、幼い頃に受けた傷があったという事実。そして、その傷を真正面から認める勇気が、いま田中の胸を苦しめる。


 深く息を吐く田中の姿は、黒木のよく知る “生意気な学生” のそれではなかった。まるで何年も抱え込んできた荷物を整理し、再出発しようというそんな気概が感じられる。 


「……おいおい。なんだ、急にしおらしくなっちまって。ひどい目に合ってきたみたいだな」


 軽口を叩いて空気を戻すつもりだった。だが、田中が顔を上げた瞬間、その目に宿った確かな決意を見た黒木は、言葉の続きを飲み込んだ。


 普段の田中とは違う、強さと弱さが入り混じったまなざし。


 リュッサが黒木へ目を向ける。その額の目は開かれたままだ。


 田中が試練を終えた。ならば、次に進むのは自分だ。黒木は短くタバコを吸ったあと、ピンッと地面に弾き飛ばす。


「……じゃあ、今度は俺の番だな。さっさと済ませよう」


 黒木には、怖れも強がりもなかった。ただ、どんな苦痛もこれまで独りで耐え抜いてきたという自負。それだけがあった。


 リュッサは深く頷くと、周囲の風がぴたりと止まり、空気が張りつめていく。


「では、始めます」


 その言葉が合図となり、リュッサの第三の眼が強い光を放ち、その光が黒木を包み込んだ。




 意識は深い水底へ落ちていくかのように沈み、気がつくと黒木は幼いころの自宅に立っていた。


 二階建ての、まだ木の匂いが残る真新しい家だった。壁紙も床材も新品の光沢を帯びている。黒木にはそれがどこか誇らしく、どこか落ち着かないように思えた。


 その家が建った理由も、はっきり覚えている。


 高校受験を控えた姉、そして自分も小学校の高学年となり、ひとつの部屋では手狭になったのだ。


「そろそろ、真也にも自分の部屋を」そう考えた両親の判断だった。


 それまで黒木は、五つ年上の姉と同じ部屋で寝ていた。面倒見の良かった姉を、おせっかいだと喧嘩もしたが、何でも話し、一緒に笑い合って過ごしてきた。姉は頼れる存在だった。


 だから、自分の部屋が与えられた時、心の中に湧いたのは単なる喜びだけではない。自立への第一歩のような自尊心と同時に、胸が空いたような寂しさがあったのを覚えていた。


 しかし、二階の自室で過ごす時間が増えるにつれて、そんな感情は徐々に薄れていった。窓を開ければ、潮風が吹き込み、街と山並みが広がる。その眺めが、幼い黒木の胸を一気に奪った。


 黒木は視力が驚くほど良かった。裸眼にもかかわらず、数百メートル先の木の枝に止まった鳥の輪郭まではっきりと捉えられるほどに。


 海と山が隣り合う土地。だからこそ、この窓から見える生き物たちは実に多彩だった。

 

 海岸近くの鉄塔を悠々と旋回するミサゴ。港に群れで降り立つウミネコたちの白い翼。山の縁を滑るように飛ぶハイタカ。近所の柿の木には、黄緑色の体を揺らしながらメジロが止まり、朝方にはアオサギが田んぼ横をゆっくりと歩く姿もあった。


 窓から見えるそれらすべてが、幼い黒木にとって “宝物” のように見えた。


 スケッチブックはいつも勉強机の端に置いてあった。ページを開いて鉛筆を握ると、手は自然に動き出す。鳥たちが羽ばたく瞬間、枝に止まろうとする一拍、その身体を包む風の流れ——見逃したくない。忘れないうちに。ただその一心で、黒木は夢中で鉛筆を走らせ続けた。


 鉛筆の芯で紙が擦れる音が、静かな部屋に響く。


 鳥の影が飛び立ち、風をまとって空へ跳ね上がる。


 その一瞬を追うように、幼い黒木の視線も、鉛筆の先も素早く動く。その世界に没頭している間だけ、誰の声も、日常の雑音も届かない。ただ、掴みとった羽ばたきの軌跡と、黒鉛がこすれて立つほのかな匂いが彼を満たしていた。


 その情景は、優しく、静かで……。黒木真也という人間の、アイデンティティ。彼の魂の原点だった。

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