09
リュッサは両眼を細め、二人の魂の揺らぎを確かめるように静かに言葉を紡ぎ始めた。
「それでは、お話ししましょう。この冥府から現世に帰還するための方法を」
田中が無意識に息をのむ。リュッサの声は穏やかだが、洞穴の闇を思わせるような重みがあった。
「一つ ——天の許し。天上の力によって強制的に帰還させられる方法です。誤って冥府に訪れてしまった者を、使者や聖人の加護によって生者の世界へ引き戻します」
黒木は小さく首を傾ける。
「ただし……極めて稀。天上は滅多に “冥府からの帰還” を認めません。その代わり、冥府での汚染は帳消しとなりますが……」
リュッサの眼が微かに曇る。
「記憶の喪失、またはあなた方の代わりに誰かが代償を払う……そのような “天の秤” が働くでしょう」
田中が思わずゴクリと唾をのむ。(神隠しってやつか……?)
「二つ ——贖罪の儀。最もわかりやすい帰還の道です。遺物、血や心臓等の象徴物……これらを冥府の奥で集め、儀式を行うことで自らの汚染を象徴物へ移し、門からの帰還が可能となります」
ツゲが小さく補足するように頷いた。
「リュッサ様が祈祷を行ないますが……汚染が酷いほど必要な遺物や象徴物の高い質と量が求められます。また、儀式は苛烈となります」
リュッサは眉一つ動かさず告げる。
「三つ ——代償交換。取引です。冥府の住人、悪魔、あるいは “地の主” と対価を交わし、現世へ戻る契約を結びます」
黒木が鼻で笑う。
「悪魔に対価ねぇ……要は、何かを犠牲にしてでも帰りたいなら、って話か?」
「その通りです。ただし、悪魔との契約は常に曲解されます。差し出す対象が “本当にあなたの思うもの” で済む保証はありません」
田中は顔を引きつらせた。
「四つ ——自己浄化。冥府で対峙した罪の象徴……それを受け入れ、和解し、自身を赦す道です。これは外的な儀式ではなく “内的な戦い”。苦痛も記憶も、すべてあなた自身が直視しなければなりません」
田中が震えながら呟く。
「……俺、自分の罪に向き合うなんて……」
「逃げ続ける限り、浄化は起こりません」
「五つ ——救出代行。現世側の誰かが儀式を行い、冥府へ通じる裂け目を開き、あなた方を引き上げる方法」
ツゲが目を見開いた。
「しかし……その儀式は、生者に甚大な負荷を与えます」
黒木が、説明の途中で口を挟んだ。
「……ちょっと待て。今の “救出代行” だが、そもそも俺たちはなんでここに入って来れた? 現世側でそんな儀式をやった覚えはない。それに——」
黒木はツゲを一度ちらりと見てから、写真を取り出して尋ねた。
「——その前に、このユースフって学生。こいつもこっちに来たはずなんだが……彼は、どうなった?」
ツゲは、写真を確認するまでもないといった様子で答えた。
「すでに罪の清算に入っている」
すると、リュッサが静かに語り出した。
「彼は魂となって川を越え、ここに来た時点で “死者” でした。あなた方より先に洞穴へ入り、彼自身の罪の清算に取り掛かっている最中です。冥府の摂理に従って」
静謐な声が、薄闇に染み込むように響いた。
「あなた方が冥府へ入れた理由は、私にも “確定的な説明” はできません。ですが、冥府の側からの導きが働いたか、あるいは何らかのきっかけで入口が開いてしまった、という可能性があります。どちらも非常に稀な事例です」
淡々と告げるリュッサの言葉に、黒木が返す。
「……導き、ねえ」
一方で田中は、ユースフの名が出た途端、顔色をみるみる蒼くしていた。彼は小さく唇を噛み、躊躇いながらもリュッサに一歩近づく。
「……あの、リュッサさん。ユースフは大丈夫なんですか? ……いきなり罪とか試練とか、耐えられるんですか?」
声が震えている。黒木が軽蔑するように田中を見たが、田中はただ必死に言葉を続けた。
「その……ここに来た時点で “死者” だったって……どういう……」
その問いは、怖さと罪悪感の混じった、逃げ場のない必死さだった。
リュッサは田中をじっと見つめる。まるで田中の胸の奥の不安を、そのまま掬い上げるかのように。
「ご心配は当然です、田中さん。ですが——」
静かな声で、しかし確かな重みを乗せてリュッサは答えた。
「ユースフさんは、あなた方と違って “冥府に属して” こちらへ来ています。つまり、この環の流れに逆らってきたわけではありません。死者としての導きが働き、しかるべき順序でこちらへいらしたのでしょう」
田中は小さく首を垂れた。胸の前で握った拳がわずかに震えている。
「……じゃあ……苦しんではいないんですか?」
「苦しみが無いとは申しません。ですが」
リュッサはほんの一瞬、まぶたの奥に哀悼の意を宿らせた。
「彼は彼自身の罪と向き合い、自らの歩調で清算を始めているはずです。冥府は無慈悲ですが、不条理ではありません。彼が受ける分だけの罰を与える。それがこちら側の理です」
田中の肩から力が抜ける。ユースフは、すでに命を失っていた。その事実に触れ、すでに取り返しのつかない事態になっていると気づいた。ただ、見えない闇の中で彼ひとりが放り出されたわけではない、と知ったことで、胸の奥のつかえが少し緩んだ。が、彼を死に追いやったのは間違いなく自分自身だ。
黒木が田中の背を叩いた。
「貶めておいて、よくそんな口が利けるな。お前が殺したようなもんじゃないか。まぁ、お前はここでその罪の清算に怯えていればいい」
田中はその言葉に何も反論できず、ただその罪の重さと罰の恐怖に戦慄した。
「では、救出代行の説明の続きを」
リュッサが再び話し始める。
「救出の儀式を試みた場合、現世側の人間の死、狂乱、魂の喪失等、帰還には “生者側の犠牲” を伴います」
田中は、思い当たる人物が頭をよぎった。たまり場で、ユースフを嘲り、残酷さを共有していた悪友たち。そしていま、友を身代わりにして罪を回避しようとする、自分の内側に巣食う醜悪さに気づいた。田中は小さく頭を振ってその連想を振り払うと、複雑な表情のまま黙り込んだ。
「六つ ——同化。冥府の力を受け入れ、番人をすべて打ち倒し、“地の主” としてこの世界と現世の境界を支配する者となる道」
黒木が片眉を上げる。
「……帰るって話じゃ、なくなってるな」
「はい。現世に戻ることはありません。しかし現世に “介入する存在” にはなれる」
田中はぞっとしながら黒木を見た。
最後にリュッサの眼に淡い光が宿った。
「七つ ——冥府で得た情報をもとに、現世の “原因そのもの” を改変する道です」
黒木が目を細める。
「つまり……冥府に来る原因を過去から消す、と?」
「そうです。冥府には時間を遡ることができる番人が存在します。しかし、その結果——世界が変わり、あなた方の知る人々が存在しなくなる可能性もあります。しかし、それを自覚することはできません。条件を満たした時点で、夢から覚めるように現世で意識を取り戻すと聞いています」
リュッサは二人をゆっくり見渡した。
「以上が、冥府から現世へ戻る七つの道。不明な点は冥府を進み、試練を経験して理解していただくほかありません。どれも代価を伴い、容易にはいかないでしょう。しかしどう選択するかは、あなた方お二人次第です」
ツゲが静かに頭を垂れる。
「……観測者である私も、この場の証人となりましょう」
リュッサの長い説明が終わると、黒木は腕を組み、しばらく黙ったまま視線を落とした。やがて、低く息を吐き、顔を上げる。
「で、あんたはここまでご丁寧に講義してくれたわけだが——」
黒木の声音は、先ほどよりも冷たい。ツゲが一瞬、眉をひそめる。規律に反する気配を察したのだろう。
黒木は構わず続ける。
「ここで “受けられる試練” ってのはあるのか? 例えば——」
視線がツゲとリュッサを交互に刺す。
「ここでお前とそっちの白衣の男を斬ったら、どうなるんだ?」
ツゲの気配が一瞬だけ増し、足元の空気がわずかに歪んだ。それだけで「許されざる行為」であることが示される。黒木もそれをわかった上で、あえて踏み込んでいる。リュッサは、まるで風が止んだような静けさで答えた。
「良い質問です。黒木さん」
ツゲの強張りを片手の仕草で制しながら、彼女は淡々と続ける。
「もちろん、この場で受けられる試練も存在します。ただし、私やツゲを斬ったところで試練を越えたことにはなりません」
黒木が鼻を鳴らす。
「理由は?」
「私たちは “概念” に近い存在だからです。力でねじ伏せ、形を壊したところで……」
リュッサは首を傾けながら両手を広げた。まるで日常の話題を告げるかのように。
「すぐに再生します。普遍的な存在として」
黒木は一歩踏み込み、挑発を深めるように問いを変える。
「じゃあ質問を変える。お前らをぶった切って得た血肉は、儀式に使えるのか? 汚染を移したりするための材料に」
田中が「黒木さん……」と小声で言い、狼狽える。
リュッサは、微動だにせず答える。
「我々は対象外です。材料にはなりません。しかし……」
そこで一拍置き、黒木の腰にある異形の刀に視線を落とす。
「冥府の奥へ進めば、そういった存在も出てくるでしょう。そして、その刀……いえ、“杖” でしたね。それに田中さんが持っている鐘も……カルンが持っていたもの」
黒木は無意識に柄へ手を置く。
「それらは遺物として使用できる可能性があります。本来杖は鍵として扱うべき力を持っていました。鐘は “川の向こう” で使用されましたか? 渡る船を呼ぶために」
黒木が眉間に皺を寄せる。
「……ほぅ。じゃあ、何故杖は “刀” になった?」
「あなたが帰還を最優先に望まず、むしろ暴力に飢えていたからと推測します」
黒木の指がピクリと震え、田中が思わず黒木を見た。
「あなたの精神に合わせて形を変えたのでしょう。カルンの言葉通り、“鍵” にもなり得ます。忘却の門が変容し、現世への道が開かれるのでしょう」
田中の表情には後悔が滲み、瞳は色を失った。
(だから黒木さんにはそう言ったのに。あの時、帰れていたかもしれないのか……あぁ、最悪だ)
リュッサは最後に穏やかに言う。
「ちなみに、カルンならもう再生していますよ。彼もまた、私たちと同じ “壊れて終わることのない存在” ですから。それと、こちらで鐘を鳴らしても、もう戻れませんよ? 迎えの船は来ません」
その言葉に、ツゲが静かに頷いた。この冥府という世界の “理” が、ひとつひとつ黒木と田中の肌に浸透していくようだった。
だが、その中で一点——黒木はリュッサの発言に違和感を覚えていた。
「嘘はついてないようだが、発言内容が全てではないのは確かだな。なぁリュッサ、話を逸らしていなかったか? 材料 “には” ならない? それじゃあよ、もしかしたらこの刀みたいに、お前の血肉は道具に使えたりするんじゃないのか?」
リュッサは氷のような無表情で、抑揚のない声を返す。
「ご想像にお任せします」
黒木はリュッサを試すように、笑みを貼りつけたまま話を続行する。
「ハハハッ! そうかよ。それで……別にお前らを斬ったところで、ペナルティはないんだろ?」
「もし私を切り刻んだとすると、黒木さんに累積するのは暴虐の負債です。冥府はそれを淡々と記録し、あなたの罪とします」
リュッサの第三の眼が開き、鈍い光を発する。
「なんだよ、それだけのことか」
黒木はそう呟き、刀をリュッサとツゲに向けて構える。その瞬間、空気が変わった。まるで周囲の空間そのものが、彼の殺気に引き寄せられたように張り詰める。しかしリュッサとツゲの二人は表情ひとつ変えず、じっと黒木の様子を見据えていた。




