第七十三話
ベルの持っているランタンは揺れていた。青い炎が行く道を照らす。
森の中からは不気味な呻き声が聞こえていた。囲まれ、見られている様子も背中に感じる。ヒカルの呼吸は自然と浅くなるのを感じた。
感じるはずのない仮想空間での魔物の圧が、肌に焼け付く。耳に貼り付くサファイアウルフの声は、どこか獲物を探っているのだ。
しかし、近づいてくる様子は見えない。
サクラが少し足元の悪さにふらついた。青いランタンから出る結界の外へと体の一部が出てしまう。
慌ててヒカルが手を掴んで、引き戻す。
草木の影からサファイアウルフが飛び出してくる。大口を開けて、サクラの体に一直線だ。
再び大きな音を立ててから、狼は弾かれた。小さく悲鳴を上げて、草木の中に帰っていく。
狙われている。囲まれている。少しでも隙を見せれば、体中噛みつかれて終わりだ。
ランタンから発せられる結界は、そんなに広くをカバーできないようである。
「あ、ありがとうです」
彼女にお礼を言われて、顔を背けながら手を放した。気恥ずかしさを現すように、尻尾は左右に揺れる。
彼女の少し困ったような視線を無視するように、地面をしっかりと踏み、足場を確保して滑らないように気をつける。
そんなとき、先頭を歩いていたベルが、突然立ち止まった。
彼女の背中にぶつかり、ヒカルは眉根を寄せる。
「どうしたんだよ?」
「⋯⋯効力が弱くなってますね」
彼女の目線の先には、青い炎のランタンがある。それは先ほどよりも炎が小さくなっていた。
「⋯⋯燃やしてるからそうなってんじゃないのか?」
「いえ、どうやら文字自体の効力が弱まっているようです。ドワリンド様の魔法は、地脈の魔力なども使って行われていたようですね」
つまるところ⋯⋯──
ベルの言葉を現すように、狼が飛び出してくる。今まで少し余裕があった彼らとの距離も、寸前まで迫る。
よだれが顔面にかかり、ヒカルは顔を引きつらせた。
「やっぱりうまく行くわけなかっただろ!」
「えぇ、本当に、全くそのとおりです。ここで解除されたら、私たちは仲良く彼らの餌ですね」
「あ、あわわ⋯⋯」
混乱しているサクラの手を握りしめる。
「ベル! 目的地まで走るぞ!」
「わかりました。一気に駆け抜けましょう」
ベルの先導のもと、サクラの手を引いて走り出した。
草木に隠れていた狼たちは姿を表して牙をむき出しにして追いかけてくる。時たまこちらへ飛びかかると、僅かに残った結界の効力により弾き返される、
しかし、先ほどまでの結界の強力さは微塵もない。
「またこれかよ!」
ヒカルは大きな声を出して、尻尾を激しく揺らした。
雪国に住む人間は、雪の上を場所にによって歩き方を変えるらしい。それは、どのように滑るか変わるからだそうだ。
このゲームの物理演算は一体どうなっているのか。一歩足に力を込めるごとに、踏みしめる地面の質が変わる。
ヒカルは足を取られたサクラを抱き寄せながら、雪の滑りに身を任せた。自分たちのすぐ上を、大口を開けた狼が通過していく。少しでもズレていたら、どちらかが噛みつかれていた。
「ベル! 結界はどうなった!?」
「今まさに消滅しました。ここから先は自力で行くしかないです」
「くっそ! 簡単過ぎると思ったよ!」
歯噛みしながら、足を動かす。サクラもなんとか足を滑らせながらもついてきている。
一際大きな遠吠えが聞こえた。サクラの肩に噛みつこうと牙をむき出しにしている。その狼に向かって、ヒカルは拾い上げた枝を前に突き出す。
枝が狼の口の中に突き刺さった。苦しげな声を上げながら、口を雪の中に突っ込んで転げ回っている。
「あ、ありがとうです」
「お礼を言ってる暇あるなら、足を動かす!」
「は、はいです!」
ベルが冷静にランタンを振り回し、狼の画面にクリーンヒットさせていた。炎が燃え移り、これまた転げ回っている。
「見えてきました」
彼女の声につられて顔を上げる。そこに見えたのは、大きなクリスタル。まるで魔力を蓄えているかのように、不思議な光を放っている。
「でも、狼たちはどうするんだ!」
ヒカルは腕に噛みつかれて、体力が削られる。奥歯を噛み締めながら、狼の顔を殴りつけた。
自身の腕から飛び散る赤いポリゴン片は、雪に血のようにへばりついてから消える。
「とにかく行ってみないことには」
「だよな! 行き当たりばったりだよな、ちくしょう!」
前へと進み、何かを踏み越えた気配がある。瞬間、鼓膜が破れそうなほど大きな叫び声が聞こえた。その声に反応するように、狼の動きがピタリと止まった。
こちらをまだ見つめる顔は獰猛そのものだったが、彼らはゆっくりと森の中に帰っていく。
助かった?
一瞬、安堵しかけたが、そんなわけがないと頭を振った。




