第百十二話
水の音の正体は、渓谷の下に流れる大きな川だった。見ると、かなりの速さだ。途中で渦も巻いている。
「こういうのって凍らないですね?」
「動いてる川って凍りにくいっていうのもあるけどどうだろ? ゲームだからってのもあるのかな?」
「どうでもいいっす。早く渡ろうっす」
ミサキは不機嫌そうに、吊り橋を指さす。
それは手作り感が強い古いものだった。吊っている縄は、どこか頼りない音を出している。
ヒカルは少しビビりながら、床板に足を延ばす。何回か強く踏んで落ちないことを確認してから、完全に上へ乗った。
「大丈夫みたいだ」
振り返ると、サクラはギュッと杖を握っていた。ミサキは興味なさそうに視線をそらす。
「真ん中をサクラにして渡ろう」
「いいです?」
「何回も言うけど、回復役はパーティーの要だから」
「……どうでもいいから早く渡ってほしいっす」
ぶっきらぼうな彼女の言い方に少しムッとしながらも慎重に足を進める。
床板を踏むたびに吊り橋が揺れて、足が不安定になる。思わず吊っている縄を手につかんでしまう。
横幅は人一人分が通れるほどのものだ。並んで渡ることはできそうにない。
真ん中くらいまで先に渡ると、ヒカルはゆっくりと振り返った。
頷くと、心配そうにこちらを見つめていたサクラが足を一歩踏み出す。大きく揺れたことで、短く悲鳴を出した。
できるだけ揺れないようにと、ヒカルは体勢を整える。
「見た目に反して丈夫そうだな。意図的にロープを切らなければ落ちることはなさそうだ」
そう言ってヒカルはさらに一歩踏み出す。床板が腐っていたのか、思わず踏み抜いてしまった。
体が転けそうになり、思わず縄を強く掴んだ。その反動で、吊り橋は大きく揺れる。
大きくなる心臓の音に続いて、サクラの悲鳴が聞こえる。体を元に戻して大丈夫の旨を伝えた。
激しくなる鼓動音を抑えるように息をつく。揺れる吊り橋が落ち着くまでその場で立ち止まる。
振り返ると、サクラが心配そうに見つめている。まだ岸に立っていたミサキは呆れたように大きなため息をついた。
「何が大丈夫なんすか?」
「……うっせ」
恥ずかしさを隠すように尻尾を一回大きく揺らす。
今度は踏み抜かないようにと、ゆっくりしっかりと渡っていく。足元に見える川の流れは、巻き込まれば死んでしまいそうな音を立てている。
呼吸が浅くなり、緊張感と恐怖から脚が震えている。再び踏み外しそうになりながらも、渡り切ることができた。
安堵の息をついてから振り返ると、サクラが四分の三あたりを渡り切ったところ、ミサキは半分くらい渡っているところだった。
みんな無事にたどり着けそうなことに、安堵した。
風を切るような音が聞こえた。ヒカルの耳のすぐ横を何かが突き抜ける。
「きゃあ!」
数瞬あとに、サクラの悲鳴が響き渡る。
吊り橋の片側のロープが切れていた。ゆっくりと傾き、二人は落ちそうになる。
思わずヒカルは手を伸ばして、サクラを引っ張った。彼女を岸に上げることは成功した。しかし──
「ミサキちゃんが!」
「分かってる!」
ミサキは残っていた縄にしがみついている。今にも落ちそうな彼女に、ヒカルは手を伸ばす。
「こっちに手を伸ばせ!」
「別に大丈夫っす! わ、私は一人で何とかできるっすよ! そっちはいつも通り逃げればいいじゃないっすか!」
「何言ってんだよ!?」
「どうせ死んでも復活するから大丈夫だと思ってるっすよね!?」
彼女の言葉にハッとする。
確かにここで見捨ててミサキが死んだとしても、彼女はあとで復活することができる。
合理的に行くならば、無視しても問題ないはずだ。
しかし……しかし──……。
ユウェイルのときは逃げなければ死ぬ。しかし、今回は逃げればミサキは死ぬ。例え復活できるとしても、デスゲームだ。それは命を削ると同義。
「ミサキちゃんを助けないと!」
サクラの声に、迷いが吹っ切れた。ヒカルはロープに掴まりながら、ミサキへと手を伸ばす。
「今が逃げときじゃないっすか!?」
「馬鹿か! ここで逃げたら、俺はクズ野郎だろうが!」
ミサキが息を呑む。彼女は揺れる体を抑えようと力を込めていた。
ヒカルは身を乗り出して、そのまま体を寄せていく。
視界の下は急流だ。それを意識しかけて、喉の奥を鳴らした。それでも息を大きく吐いて、恐怖を打ち消した。
震える手を振る。もうちょっとでミサキに手が届きそうだが、数センチが届かない。
「ミサキ! こっちに手を伸ばせ!」
「馬鹿じゃないっすか!」
「どうでもいいから早く!」
ミサキが恐る恐る伸ばしてくる手を取りそうになったとき、再び風を切る音が響いた。




