第9話 二号車の次回仕込みと引き継ぎの鍋
午前二時半を回り、防波堤に並んだ二台のフードトラックから客の足音が遠ざかっていく。
今夜の二号車は零時から四十五分間の限定営業で生姜粥を売り切り、その後は私が本店のカウンターへ回って巧の配膳を手伝った。本店の小鉢を二品休止したこともあり、いつもならまだ湯気が立っている時間帯に、すべての丼と皿が洗い上がっている。
配信用のカメラはすでに電源が落ちていた。
私は本店を片付ける巧を残し、隣の『まかべ食堂 二号車』のステップを上った。
「ガルシア。外の折り畳み椅子、そこまででいい。あとは私がやる」
「いえ、リンさん。ワタシ、常連ですから。番号札の回収とテーブル拭きまでがセットです」
車体の外で、岩のような体躯のガルシアが布巾を絞りながら流暢な日本語で笑った。
今夜も一番乗りで本店の並肉丼を平らげたあと、列の整理から閉店後の椅子片付けまで当たり前のように手伝ってくれている。私は短く礼を言い、車内の調理台に向き直った。
眠る前のひと仕事が残っている。
次の深夜営業で出す生姜粥の一次仕込みだ。これまでは巧が本店の仕込みと並行して目を配ってくれていたが、結晶膜の検証が続く間は、営業後の三時半までに私が前半の工程を終わらせる約束になっている。
私は計量カップで無洗米を正確に測り、ボウルの中で澄んだ水を張った。
冷たい水に指先を入れ、米粒を潰さないよう軽やかに回して吸水させる。指の腹に当たる米の硬さを確かめてから浸水時間をセットし、冷蔵棚から黄金生姜の塊を取り出して愛用の小包丁を握った。
トントン、と一定の間隔で乾いた音が車内に響く。
まな板の上に並ぶ薄切りを少しずつずらし、端から細く刻んでいく。最初は不揃いだった千切りも、今では繊維に沿って髪の毛ほどの細さに揃えられるようになった。切り口から立ち昇る爽やかな辛みの香りが、夜の海風で冷えた鼻腔をすっと通り抜けていく。
「……よし。次はベースの出汁」
私は中型の寸胴に火を入れ、鶏ガラと昆布で引いた既存のベース出汁を温め直した。
沸騰する直前の、鍋底から小さな泡がぷつぷつと立ち上がる火加減で寸胴の蓋をずらす。巧の隣で何百回と見てきた、濁りを出さないための火の絞り方だ。お玉でひとすくいして小皿に取り、ふっと息を吹きかけてから唇を寄せる。
「……悪くない。塩加減も、いつも通り」
外から小窓を覗き込んでいたガルシアが、感心したように太い腕を組んだ。
「大将の手つきにそっくりになってきましたね。包丁の音も、湯気の立ち方まで同じだ」
「……まだ、巧の八割。それに」
私は小皿に残った黄金色の鶏出汁を見つめ、わずかに眉を寄せた。
「……夜勤明けの客には、少し軽い。最後のひと押しが、足りない」
舌の上では生姜の爽やかな香りだけが先に引いて、温まった喉の奥がもうひと口の重みを欲しがっていた。
そう呟いたとき、背後のステップが小さく軋んだ。
「いい匂いだな。生姜の角が綺麗に立ってる」
本店の戸締まりを終えた巧が、手拭いで濡れた手を拭きながら顔を覗かせた。
時計の針は午前三時二十五分を指している。巧は私が吸水させた米のボウルと、寸胴の澄んだ出汁の表面を一瞥し、満足そうに頷いた。
「吸水の時間も火の止め際も完璧だ。これなら次の開店前に本炊きするだけで出せる。……よし、約束の三時半だ。火を落とそう」
「……ん」
私はガスの元栓を閉め、寸胴に清潔な蓋をして粗熱を取る位置へ移した。
ガルシアが「では、また今夜。オカワリを楽しみにしています」と手を振って帰路につくのを見送り、私は急須に残っていた熱い番茶に、千切りにしたばかりの生姜の端をひとつまみ落として二つの湯呑みに注いだ。
二号車の後ろのステップに、巧と並んで腰を下ろす。
夜明け前の防波堤には街灯の白い光と、規則正しい波の音だけがあった。湯呑みを両手で包むと、生姜の香りを帯びた番茶の温もりが指先からじんわりと広がっていく。
私は番茶を一口飲み、隣の巧の肩にそっと自分の肩を寄せた。
作業着の袖から、本店の鉄板と香ばしい醤油ダレの匂いがかすかに漂ってくる。巧は湯呑みを持ったまま、肩を預け返すようにしてゆっくりと息を吐いた。
「やっぱり生姜の端を入れると違うな。冷えた指先まで温まる」
「……ん。三時半に火を落としたから、今夜はちゃんと休める」
「ああ。この一杯を飲んだら、すぐに寝よう」
湯気の向こうで、暗い海面が静かに揺れている。
私は両手で包んだ湯呑みの温もりを確かめながら、小さく息を吸った。
「……巧。相談がある」
「なんだ、改まって」
「一頭買いした還流猪の、まだ開けていないスネ筋と背脂。……あれ、二号車の生姜粥の出汁に試せないかな」
巧が湯呑みを傾ける手を止め、こちらへ視線を向けた。私は言葉を選びながら続けた。
「今の鶏ガラ出汁は、綺麗だけど優しすぎる。港の荷役を終えたお客さんが丼の底をさらうとき、あの琥珀脂の甘みとスネ筋の旨みを澄まし出汁にして合わせたら……もっと腹の底から温まる粥になる。眠らせておくより、二号車の仕入れとして引き取って、ちゃんとお客さんに売る一杯にしたい」
巧は少しだけ目を見張り、それから口の端を緩めた。
「なるほどな。豚汁で証明したあの脂の甘みを、生姜粥のベースに引くわけか。スネ筋は繊維が硬いが、下処理を工夫すれば極上の出汁が出るぞ」
「……やりたい。二号車の味を、もう一段強くしたい」
「よし、乗った。まずはしっかり寝て、今日の昼過ぎに久世さんのところへ行こう。昨夜の記録と肉を届けて、次の一手を決めてから工房へ寄る」
海風が私の銀色の髪を揺らし、遠くの水平線がわずかに群青色へ変わり始めていた。
私は空になった湯呑みを重ね、巧と一緒に立ち上がった。




