第8話 琥珀脂の試作生姜焼きと二人の味見
午後十時、防波堤の本店トラックに戻った私たちは、開店準備を兼ねて調理台の灯りを点けた。
今夜から本店の深夜小鉢を二品休止すると決めたおかげで、いつもなら仕込みに追われているこの時間帯に、ぽっかりと静かな余裕が生まれている。カメラの電源は切ったままで、狭い車内には冷蔵庫の低い駆動音だけが響いていた。
「……巧。鉄板、いつでも火を入れられる」
「ああ。まずはこの右本ロースに、筋引を入れるところからだ」
巧が氷温保冷箱から、鳴海工房で結晶膜を剥がした二千四百グラムの右本ロースを取り出した。
膜を剥がすときには二番手の骨スキの峰を使ったが、こうして塊肉を料理用に切り分けるときは、刃渡りの長い筋引の出番になる。
巧は右本ロースの端から、試作用の四百グラム分を見定め、筋引の刃元を当てた。
一切の力みなく、手前へスッと一回で引き切る。
断面には、きめ細かな桜色の赤身と、真皮のすぐ下に残された純白の琥珀脂の層が、定規で引いたように美しい層を成していた。残りの二千グラムは、再び氷温庫へ戻して大切に保管する。
「見てみろよ、この脂の厚さ。刃先で削っていたら、この一番旨い膜際の脂が全部ゴミ箱行きだった」
「すごいです……! 普通の豚ロースより脂の層が透き通って見えますね」
カウンターの外側でノートパソコンと電卓を広げていたこはくが、身を乗り出して目を輝かせた。
私がおろし金で黄金生姜をすりおろし、醤油とみりん、少量の酒を合わせたタレを用意する。
「並肉の生姜焼きなら強火で一気に焼き上げるが、この琥珀脂は融点が低い。最初から強火に当てると、せっかくの脂が全部鉄板へ溶け流れてしまう」
巧は鉄板の火をごく弱く絞り、厚切りにした四百グラムのロース肉を静かに並べた。
ジュウ、と控えめな音が立つ。
最初は赤身を焼くのではなく、脂身の縁だけを鉄板に押し当て、低温でじっくりと熱を通していく。すると、白かった脂の層が少しずつ半透明の黄金色に透き通り、甘い蜜のような香りが車内いっぱいに広がった。
「……いい匂い。昨日の端脂の塩炙りより、ずっと深い」
「膜際の脂と赤身が一緒になってるからな。……よし、ここから火を強めて、中心まで一気に熱を入れる」
巧が火力を上げ、両面に香ばしい焼き色をつけていく。豚肉として中心温度七十五度で一分以上相当の火がしっかり通ったところで、私が差し出した生姜ダレを回しかけた。
ジュワアアッ! と勢いよく白い湯気が立ち昇り、焦げた醤油と生姜の爽やかな香りが琥珀脂の甘みと絡み合う。
大皿に盛り付けられた試作の『厚切り生姜焼き』を、カウンターの真ん中に置いた。
私が炊きたての白飯を三つの茶碗によそい、巧とこはくへ配る。
「よし、冷めないうちに味見だ」
「いただきます!」
私は箸で分厚いロースを一切れ持ち上げ、口へ運んだ。
前歯がサクッと軽やかに肉を噛み切った瞬間、じゅわっと溢れ出したのは、驚くほど澄んだ肉汁と琥珀脂の甘みだった。
普通の脂身ならこれだけ厚ければ舌に重たく残るはずなのに、低温で丁寧に溶かされた琥珀脂は、生姜のキリッとした辛みと混ざり合って、綿雪のようにスッと溶けていく。そのあとから、今日の午後に鳴海工房で食べた塩つくね以上の力強い赤身の旨みが、幾重にも押し寄せてきた。
「……んっ。うっま……! なにこれ、ガチで言葉が出ないんですけど! 脂が甘いのに、生姜の香りでいくらでも食べられます!」
こはくが目を丸くして白飯を掻き込む横で、私も無言のまま二切れ目、三切れ目を口へ運び、あっという間に茶碗の飯を空にした。
そのまま炊飯器へ向き直り、しゃもじで白飯を山盛りによそう。
「……これなら、何杯でもいける」
「おいおい、開店前にあんまり飛ばすなよ、二号車の店主さん」
巧が呆れたように笑いながら、自分も一切れ口へ運び、満足そうに目を細めた。
「ああ。中心までしっかり火を通しても、これだけ赤身が柔らかい。膜さえ無傷で剥がせれば、間違いなくうちの新しい看板メニューになる」
一皿四百グラムの試作生姜焼きは、三人の箸であっという間に皿のタレまで綺麗になくなった。
だが、温かい番茶で一息ついたところで、こはくが手元の電卓をパチパチと叩き始め、やがて青い顔で画面を持ち上げた。
「……あの、大将。味は百二十点満点なんですけど、ちょっと現実的な数字を見てもらっていいですか」
「どうした、こはく」
「大将が自腹で買い取った還流猪、一頭あたりの仕入れ値を、片方の本ロースから取れた可食部二千四百グラムだけで割ってみたんです。もし、まだ手をつけていない背脂やスネ筋、他の部位を眠らせたまま、この本ロースだけで原価を背負って『一食五百円』の定食を出したら……一皿出すごとに、お店が赤字になります!」
カウンターに差し出された電卓の数字を、私と巧は並んで覗き込んだ。
車内に満ちていた甘い余韻が、すっと引き締まる。
巧は電卓の画面から視線を上げ、静かに腕を組んだ。
「そこに今は、俺とリンの二人がかりで二十五分かかる下処理の手間まで乗っているからな。味は完成しても、このままじゃ通常の五百円営業では続けられない。剥離の手順を詰めて人手と時間を減らすのと、残りの部位を生かす算段、その両方を解かないと品書きには載せられないな」
私は黙って頷き、電卓に並んだ数字をもう一度だけ見つめた。
壁の時計の針が、深夜零時へと近づいている。
「……巧。もうすぐ、零時」
「ああ。続きは営業のあとに考えよう。まずは今夜の暖簾を出そう」
私たちはエプロンの紐を締め直し、それぞれの持ち場へと向かった。




