第7話 人肌の湯と骨スキの峰
午後六時を過ぎた鳴海解体工房に、機材バッグを背負った白瀬こはくが駆け込んできた。
「大将、リンさん、お待たせしました! 久世さんに提出するための検証記録用カメラ、すぐにセッティングします!」
こはくは手慣れた動きで第一解体台の斜め上に小型カメラを据え付け、手元の温度計とストップウォッチが同じ画面に収まるよう角度を調整した。今回は一般視聴者向けの生配信ではなく、流通機構へ提出するためのローカル録画だ。
「録画、回りました。いつでもいけます!」
俺は頷き、工房の氷温庫から一頭目の『右本ロース』の無酸素パックを取り出した。包装の上から計量器に乗せ、風袋を引いた剥離前の正味重量が二千六百グラムであることを画面に記録する。
隣の作業台には、先ほどの失敗を踏まえて用意した「人肌の湯」――指を入れたときに熱くも冷たくも感じない、ぬるめの湯を張ったボウルと、清潔な晒し布が置かれている。
「湯を直接かければ、表面の脂に熱が入りすぎる。布に人肌の湯を含ませて、結晶膜の上から撫でるように温度だけを伝える」
「……私が、布を絞る。巧は、骨スキに集中して」
リンがボウルから引き上げた晒し布を固く絞り、俺の脇に控えた。
午後七時ちょうど。俺はハサミで右本ロースの真空パックを切り開いた。
ストップウォッチの数字が動き出す。
現れたのは、二千六百グラムの立派な本ロースと、その表面を隙間なく覆う琥珀色の結晶膜だ。
「リン、端から頼む」
「……ん」
リンが温かい晒し布を、ロースの端の結晶膜へそっと当てて拭った。
六十度の湯をかけた時のように脂がドロドロに溶け出すことはない。ただ、晒し布が通り過ぎたあとの結晶膜と真皮の境目にだけ、時間経過の白濁硬化とは全く異なる、ごく薄い乳白色の縁がふわりと浮き上がった。
「ここだ」
俺は二番手の骨スキを逆手に近い角度で持ち、鋭い刃先ではなく、滑らかに研ぎ整えられた『峰』の背を、その浮き上がったばかりの境目へ押し当てた。
刃先を使えば、柔らかい真皮や脂に食い込んで傷をつけてしまう。だが、角が立ちすぎない峰の背なら、すでに熱で結合が緩んだ結晶膜だけを下から掬い上げるように押していける。
スルスル、と不思議な感触が指先に伝わった。
生乾きの松脂のように刃へ絡みついてきた昨夜とはまるで違う。峰の背が真皮の表面を優しく滑り、その上にある結晶膜だけがペリペリと音を立てて一枚の帯のように浮き上がっていくのだ。
「すごい……! 大将、脂が全然削れてません、真皮のすぐ上だけが綺麗に剥がれてますよ!」
カメラのモニターを覗き込んでいたこはくが、声を潜めたまま弾んだ息を漏らす。
だが、俺は気を緩めなかった。
少しでも峰に込める力が強すぎれば、下にある柔らかい琥珀脂を押し潰してしまうし、逆に布で温める範囲が広すぎれば、手が届く前に膜の温度が下がって再び固まり始める。
「リン、次の五センチを拭いてくれ」
「……了解」
リンが晒し布を当てて境目を浮かせ、俺がすかさず骨スキの峰を滑らせて膜を剥がす。
五センチ進んでは布を当て、また五センチ進んでは峰で押し上げる。
開封から十五分が過ぎ、二十分が過ぎた。本来なら空気接触で膜がカチカチに硬化し始める時間帯だが、人肌の湯で表面の湿度と温度を補いながら峰で追いかけることで、硬化の進行をギリギリで抑え込むことができていた。
そして、最後の一筋へ骨スキの峰を滑り込ませた瞬間。
パサリ、と軽い音を立てて、剥がれ落ちた結晶膜が一枚の透き通った琥珀色のリボンとなってまな板の端へ落ちた。
「……よし、剥がし切った!」
鳴海がストップウォッチを止め、計量器の上へ剥離後の右本ロースを乗せた。
結晶膜の下から現れたのは、一点の傷もない純白の琥珀脂と、瑞々しい桜色の赤身だった。酸化した渋い匂いは微塵もなく、生のままでも甘いナッツのような香りがふわりと立ち昇ってくる。骨スキを握る右手に、初めて一枚を無傷で剥がし切った快い熱が残っていた。
「剥離後の可食部重量、二千四百グラム! 剥離前が二千六百グラムですから、歩留まりは九十二パーセントです!」
鳴海の声に、隣で晒し布を下ろしたリンもほっと肩の力を抜いて微笑んだ。
人肌の湯を含ませた布と、骨スキの峰を使う『湯引き峰剥がし』。このやり方なら、一番旨い膜際の脂を削り落とさずに本ロースを救い出せる。また、問題の結晶膜を完全に除去したこの二千四百グラムのロースは、もう三十分で硬化する要因がないため、このまま氷温保冷して本店へ持ち帰ることが可能だ。
だが、モニターを確認していたこはくが、画面の隅の数字を指差して息を呑んだ。
「大将、歩留まりは八十パーセントの基準をガチで大きく超えてますけど……ストップウォッチ、『二五分一〇秒』です。開封から二十分以内の基準に、五分十秒届いてません……!」
俺はストップウォッチの液晶画面を見つめ、静かに頷いた。
「ああ。無傷で剥がせる道筋は見えたが、今はリンと二人がかりの上、湯の正確な温度も、布を当ててから峰を入れる目印もまだ俺の指先の勘だ。ここを誰が見ても迷わない形に揃えないとな」
こはくはすぐに三脚の雲台へ手をかけ、解体台と温度計の位置を見比べた。
「なら、今回の録画をすぐ見返して、五センチごとにどこで秒数がかかったか洗い出しますね。次の検証では、布を当てる秒数と温度計の変化を一画面で比較できるよう、カメラの角度も組み直しておきます!」
鳴海も手元の記録帳へ素早く数値を書き留め、作業台のボウルと晒し布の位置を見やった。
「工房側では、今の二人がかりの手順を若手が一人で回せるよう、ボウルと布の配置から作業台の動線を詰めておきます」
「助かる。二人とも頼むよ」
俺は骨スキを洗って拭き上げると、桜色に輝く二千四百グラムの本ロースを清潔なシートで包み、氷温保冷箱へと収めた。
「まずはこいつを店へ持ち帰って、どんな味になるか確かめよう。……包丁を筋引に持ち替えて、本当の生姜焼きを作る時間だ」




