第6話 鳴海工房の砥石と一頭目の惨敗
たっぷりと七時間の睡眠を取ったあとの頭は、気持ちがいいほど澄んでいた。
午後一時過ぎ、俺とリンが保冷箱を積んで『鳴海解体工房』のシャッターをくぐると、奥の研ぎ場からシャッ、シャッ、と規則正しい水音が響いてきた。
「いらっしゃいませ、真壁さん、天宮さん。ちょうど今、中砥の面直しを終えたところです」
防水エプロン姿の鳴海蓮司が、濡れた手を拭いながら立ち上がった。
作業台の周りには、かつて俺の下で働いていた元後輩たちや若い見習い職人が数人、真剣な顔で通常の魔獣肉の筋引きを行っている。
「悪いな、昼時の忙しい時間に作業台を借りて。機構からの保冷便も、さっき表で受け取ったよ」
「いえ、うちにとっても他人事ではありませんから。昨日の検証配信、工房の若手たちと全員で拝見しました。実は先週、近隣の卸から還流猪の端材がうちにも一ケース回りましてね……見習いの一人が無理に刃先で膜を剥がそうとして、危うく手首を捻るところだったんです」
鳴海は眼鏡の位置を直し、研ぎ場の桶の上に渡した砥石を示した。
修正砥石で丁寧に擦り合わされた砥石の表面は、わずかな凹みもなく鏡のように平らに整えられている。砥石が真ん中だけ凹んだまま包丁を当てれば、刃筋が微妙に丸まり、膜の境目を正確に捉えることはできない。
「まず、昨夜の結晶膜で酷使した二番手の骨スキを拝見します。……ああ、やはり切っ先から三センチほどの刃先に、目に見えないほどの微細な摩れが出ていますね」
「硬い殻になる前の粘りで、横に引っ張られたからな。面直しした砥石を借りるぞ」
俺は鳴海と並んで研ぎ場に座り、二番手の骨スキを握った。
平らな砥石の上に刃を置き、一定の角度を保ったまま静かに滑らせる。泥が浮き、鉄と石が擦れ合う細やかな感触が指先から肘へと伝わってくる。鳴海が隣で仕上げ砥に水を打ち、俺が落としたわずかなカエリを確かめるように頷いた。
「さすがです、真壁さん。吸い付くような平面が出ています」
「お前が砥石の面をきっちり出してくれたおかげだ。道具の土台が狂ってちゃ、どんな手も役に立たん」
研ぎ直した骨スキを湯で洗い、乾いた布で拭き上げる。
時計の針は午後三時を指していた。
俺たちは第一解体台へ移動し、機構から買い取った一頭目の部位セットのうち、『左本ロース』の無酸素パックだけを取り出した。右本ロースや背脂、スネ筋、肩や脚のパックは、封を切らずにそのまま工房の氷温庫へ入れてある。個別に真空包装されているから、開けたこの一袋だけが三十分の時計を刻み始める仕組みだ。
「……湯の温度、六十度。用意できた」
リンが温度計を差し込んだ寸胴から、柄杓で湯を汲み上げる。
昨夜思いついた、熱で膜と真皮の境目を緩める試みだ。通常の豚の湯引きよりも少し低めの六十度なら、赤身を煮えさせずに表面の結晶膜だけを浮かせられるのではないかと考えた。
「よし。午後三時ちょうど、一頭目の左本ロースを開封する」
俺がパックの端を切り開くと、冷えた琥珀色の結晶膜が姿を現した。
リンがすかさず、ロースの端から六十度の湯を静かに回し掛ける。
湯気が立ち昇り、透明だった琥珀膜の表面が一瞬で淡く緩んだ――ように見えた。
「今だ」
俺は研ぎ上げたばかりの骨スキの切っ先を、湯で温まった膜の下へ滑り込ませた。
だが、刃を二センチ進めたところで、昨日とは全く違うヌルリとした抵抗が返ってきた。
「……なんだ、これ」
六十度の湯の熱で、膜のすぐ下にある融点の低い琥珀脂がいち早く溶け出し、半ば緩んだ結晶膜と混ざり合って白くドロドロに乳化していたのだ。
しかも、湯気が引くにつれて、その乳化した脂と膜が糊のように真皮の繊維へべったりと再固着していく。
「真壁さん、膜が脂ごと真皮に張り付いています!」
「くそ、温度が高すぎたか……!」
俺は慌てて湯を止め、冷水をかけてから別の箇所に刃を入れた。また、切っ先が刺さらないよう、包丁の背――峰の側で真皮をぐっと押さえながら膜を引っ張ってみた。
だが、一度溶けて膜と混ざった脂は、剥がそうとするたびにズルズルと崩れ、真皮の表面を無惨に引き裂いていく。十分、二十分と格闘するうちに、空気と反応した結晶膜は乳化した脂を巻き込んだまま、不格好な白い石膏のようにガチガチに固まってしまった。
午後三時半。無情にも三十分の硬化限界が訪れた。
解体台の上には、表面がまだらに剥がれ落ち、脂が溶け流れて見る影もなくなった左本ロースが横たわっていた。
「……完敗だな。六十度の湯じゃ、膜が緩むより先に、一番大事な琥珀脂が溶けて糊になる」
俺は包丁を置き、深い溜め息をついた。
この左本ロースは、二十四時間の事前培養検査で衛生面の適合が確認されている個体だ。だが、ここまで表面の膜と脂が固着して渋みが回ってしまっては、店の商品には到底使えない。
「……巧。変質した外側、厚めに削ぎ落とす。中の赤身、まだ生きてる」
「ああ。買い取った肉を無駄にはしない。渋みが移った深部までしっかり除いて、残った中心の赤身は叩いて工房の賄いにしよう」
俺は筋引で表面の硬化層と変質した部分を分厚く切り落とし、無傷だった中心部の赤身だけを細かく包丁で叩いた。塩と生姜を少しだけ練り込み、平たいつくね状に丸めてフライパンで中心まで十分に火を通す。
工房の休憩卓で、鳴海が淹れてくれた熱い番茶と一緒に、焼き上がった塩つくねを三人でつついた。
琥珀脂は失われているが、還流猪の赤身そのものが持つ濃い旨みと歯ごたえが、噛むほどに口の中へ広がる。
「……美味いです。脂がなくても、赤身の味がこれだけ濃いんですね」
「だからこそ、あの琥珀脂と一枚で合わせたいんだよ」
俺が番茶を啜ったとき、解体台へ片付けに戻っていた鳴海が、不意に足を止めて声を上げた。
「真壁さん、ちょっとこちらを見ていただけますか!」
俺とリンが解体台へ駆け寄ると、鳴海が先ほど削ぎ落とした硬化膜の断片を指差していた。
「ここです。お湯がかかりきらず、ぬるい雫が垂れただけの端の部分……真壁さんが途中で、刃先ではなく包丁の『峰』で真皮を押さえた箇所だけ、脂が溶けずに膜が綺麗に浮いています」
俺は目を凝らした。
時間経過で白濁してカチカチに固まった周囲の殻とは明らかに違う。真皮のすぐ上の薄い境界線だけが、まるで薄い氷が岸辺から剥がれるように、半透明のまま浮き上がっていた。
「……熱い湯じゃない。脂が溶け出さないギリギリの人肌の温度と、切らない『峰』か」
俺は自分の親指で、研ぎ直した骨スキの滑らかな峰の背をなぞった。




