第5話 仮停止の通達と小鉢の縮小決断
最後の客だった久世の足音が防波堤の闇へ消え、午前二時ちょうどに配信用のカメラの電源を落とした。
赤く灯っていた録画ランプが消えると、狭いフードトラックの中には波の音と、鉄板の余熱が冷めていく微かな金属音だけが残った。調理台の端には、久世が置いていった『還流猪・本ロース部位に関する仮流通停止措置通達』の白い封筒が乗っている。
「……巧。豚汁、温め直す」
「ああ、頼む。寸胴の底にちょうど二椀分だ」
私がコンロの弱火を少しだけ強めたとき、防波堤の舗装路を急ぎ足で戻ってくる革靴の音が響いた。
小窓の外に現れたのは、書類ファイルを抱えた対策課の葛城と、その半歩後ろに立つ久世だった。
「夜分遅くに恐れ入ります、真壁さん、天宮様。対策課へ戻ろうとした途中で久世検査官と鉢合わせまして、集計が出たばかりの市場速報だけはどうしても今夜中にお渡ししたく、引き返して参りました」
息を整えた葛城が、カウンターの端へ一枚の集計表を広げる。
私は火を細め、巧の隣からその紙面を覗き込んだ。
「近郊迷宮の定着層から上がる豚肉のうち、すでに三割近くが今回の還流猪に置き換わり始めています。明朝から本ロースが仮流通停止となれば、代替需要が集中して、通常規格の並豚まで卸値が跳ね上がるのは避けられません」
巧は眉を動かさず、並んだ数字に目を落とした。
隣に立った久世が、グレーのコートの襟を正して静かに口を開く。
「葛城主任からその速報を聞いて、私も同席させてもらった。先ほどの澄まし豚汁で、適切な一次処理を経た還流猪の脂の価値と衛生面は十分に確認できた。だが、本ロースの膜に刃を取られて赤身を四割も捨てる現状では、明朝の仮停止は曲げられない」
久世の声には棘も遠慮もなかった。ただ、何万食もの食卓を預かる実務家の重みだけがあった。
「並肉の卸値まで跳ねれば、街の飲食店も苦しくなる。……私としても、止め続けたいわけではないのだ」
「分かってますよ、久世さん。並肉が高騰して捨てる肉が増えれば、結局うちの五百円の定食も立ち行かなくなる。どこの工房の職人でも時間内に膜を剥がせる手順、必ず見つけます」
巧は顔を上げ、葛城へ視線を向けた。
「葛城さん、検証用の還流猪を二頭分、手配してもらえますか。機構の無酸素設備で、左右の本ロースや背脂、スネ筋ごとに個別真空包装された分割セットがあるはずです」
「はい。一次処理を終え、二十四時間の迅速培養検査で適合が確定したばかりの二頭分が機構の氷温庫にございます。ただ、本ロースが仮停止扱いとなるため、公費での無償提供が難しく……」
「俺が自腹で二頭とも一頭買いします。肩や脚、骨も含めて全部引き取る契約で構いません。自分の包丁の宿題に、役所の財布は使えないでしょう」
巧は迷いなく言い切った。
葛城が目を瞬かせ、それから深く頭を下げる。
「……承知いたしました。本日の昼過ぎ、鳴海さんの工房へ直接保冷車で納品できるよう手配いたします」
「検証の記録が出たら、いつでも呼んでくれ。基準を満たす証拠があるなら、私は止めない」
久世は短く頷き、葛城と共に夜の防波堤へと去っていった。
トラックの周りに、また静かな潮風が戻る。
私はお玉で寸胴の底から澄まし豚汁を掬い、二つの椀へ均等に注いだ。白味噌をほんの少しに抑えた汁の中で、細切りの大根とゴボウ、そして琥珀色の背脂の玉が湯気を立てている。
「……巧。冷める前に、座って」
狭いカウンターの内側で丸椅子を並べ、私たちは向かい合って椀を持った。
両手で椀を包んで一口啜ると、営業中に客へ出した時よりもゴボウの香りと脂の丸みが深く馴染んでいて、張り詰めていた肩の力がふっと抜けていく。
巧もゆっくりと汁を飲み、柔らかく煮えた大根を噛み締めてから長い息を吐いた。
「……甘いな。やっぱり、この猪の脂は悪くない」
「ん。美味しい。……でも、巧。二頭分の検証、昼間に鳴海さんの工房でやるんでしょう」
私が椀の縁から真っ直ぐに見つめると、巧は少しだけ苦笑した。
「ああ。昼のうちに作業台を借りて試すしかない。ただ、夜の仕込みを今まで通りにやっていたら、睡眠時間が削れるな」
「なら、今夜やった二号車の四十五分短縮営業、検証が終わるまでずっと続ける」
私は汁を飲み干し、空になった椀をカウンターに置いた。
「今夜みたいに零時四十五分で二号車を閉めて、こっちの配膳に入る。営業が終わったあとの、次の夜に出す生姜粥の仕込みの前半も、私が一人でやる」
巧が何か言いかける前に、私は言葉を継いだ。
「二号車は、私の持ち場だから。……本店はどうするの」
「……そうだな。お前にばかり背負わせるわけにはいかない。検証が片付くまでの間、本店は深夜の小鉢を二品休止して、丼と汁物に絞る。三時半には必ず火を落として、七時間はきっちり眠る。寝不足で鈍った手じゃ、あの膜は攻略できないからな」
私は頷き、巧の空いた椀も重ねてから、カウンターの上に置かれた巧の右手に自分の指先を重ねた。
包丁の柄を握り続けて硬くなった、温かい手のひらだった。
「睡眠、七時間。絶対。……約束、破ったら、明日の賄い抜き」
「はは、そいつは一番効く脅しだな。守るさ」
巧は私の指先を軽く握り返してから立ち上がり、検証用の別ケースに収められた失敗ロースの塊を窓越しに覗き込んだ。
カチカチに固まった白濁色の膜と、その下で無惨にえぐれた赤身の断面。
「……さっきは冷たいまま、刃先で切ろうとしたから松脂みたいに絡みついた。だが、この猪の脂は、豚汁の湯気くらいの温度でもすぐに柔らかく緩む」
巧の静かな目が、寸胴から立ち昇る名残の湯気を映していた。
「冷えた脂を刃で削るんじゃない。……人肌の湯で、真皮との境目だけを緩められたらどうなる?」
午前三時半を告げる時計の針を確かめ、巧は寸胴の元栓を閉めた。




