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クビになった解体屋のおっさん2 〜いつもの技が通じない魔獣肉を、それでも五百円の旨い飯に〜  作者: さくらろ
第1章 三十分で固まる琥珀の膜

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第10話 二十五分の壁と再現性の条件

 午後一時半、俺たちは広域鮮度流通機構の第一検査室を訪れていた。

 空調の効いた白い室内には、消毒液と金属の乾いた匂いが満ちている。ステンレスの作業卓の向こうで、統括検査官の久世誠司がすでに待機していた。公的な協議の場であるため、こはくの配信カメラは電源を切ったままだ。


「時間通りですね、真壁さん。では早速、昨夜そちらで剥離したという検体と記録を拝見します」

「ええ。まずは現物からどうぞ。昨夜鳴海工房で剥がした一頭目の右本ロースから、検査用の生肉と、試食用に焼いた分を合わせて五百グラム持ってきました」


 俺は持参した氷温保冷ケースを開け、無酸素包装の生肉検体と、出る前に本店の鉄板で焼き上げてきた保温容器を並べて提出した。

 久世は添えられたロットの履歴票に素早く目を通すと、ゴム手袋をはめた手で生肉検体の包みを解き、計測針を当てていく。


「……pH五・八、深部温度一・四度。保冷状態は問題ありませんね」


 そこまでは普段通りの事務的な声だった。

 だが、ピンセットで検体の端の白い脂を持ち上げ、ルーペで断面を覗き込んだ瞬間、久世の眉がわずかに動いた。


「……結晶膜の残存がゼロ。それどころか、真皮直下の脂層に刃の傷が一つもありませんね」


 久世はルーペを外し、眼鏡の奥の目を細めて桜色のロースと純白の脂の層を見比べた。


「通常ラインの職人が皮剥ぎ機や骨スキの刃先で挑んだ検体は、いずれも脂層が半分以上えぐれ、残った膜の欠片から酸化が始まっていました。剥離前二千六百グラムに対して可食部二千四百グラム、歩留まり九十二パーセント……。真壁さん、どうやってこの境目だけを剥がしたのですか」

「種明かしは映像で見てもらうのが一番早いです。こはく、頼む」

「はいっ! 久世さん、これが昨日の午後七時から撮影したローカル録画です。時計と計量までノーカットで入ってます!」


 こはくがノートパソコンを開いて作業卓の中央へ画面を向けた。

 画面の中で、リンが湯を含ませた晒し布で結晶膜を拭い、俺が二番手の骨スキを逆手に持って、峰の背を滑らせていく映像が再生される。

 琥珀色の膜が薄い乳白色の縁を浮かべ、ペリペリと帯のように剥がれていく様子を、久世は瞬きもせずに凝視していた。早送りすることなく映像の最後まで見届けたところで、画面の隅のストップウォッチが『二五分一〇秒』で止まる。


 久世が画面から顔を上げかけたところで、俺は先に保温容器の蓋を開けた。


「数字の話をする前に、まず一口食べてみてください。冷めても脂が固まらないように、低温からじっくり火を入れて焼いてきました」


 容器から立ち昇る醤油と黄金生姜の香ばしい湯気に、検査室の張り詰めた空気がふっと緩んだ。

 久世は一拍だけ迷うように眼鏡の位置を直すと、消毒した手で割り箸を取り、分厚い生姜焼きを一切れ持ち上げて口へ運んだ。


 一噛み、二噛み。

 久世の顎の動きがピタリと止まった。

 空気に触れて硬化すれば松脂のような渋みしか残らないはずの還流猪の脂が、舌の上で澄んだ蜜のように溶け、赤身の力強い旨みと生姜の辛みを包み込んでいく。久世はごくりと喉を鳴らして飲み込むと、手元の生肉検体と保温容器を交互に見やった。


「……参りましたね。昨日の豚汁も驚きましたが、本ロースの膜際の脂がこれほど気品ある甘みを持っていたとは。しっかり火が通っているのに、赤身のパサつきが一切ない。これを廃棄や二束三文の端材扱いにしていたのは、確かに大きな損失です」

「……うちの、看板メニューになる味」


 隣で一緒に試食用の小皿をつついていたリンが、短く胸を張るように言った。

 久世は残りの一切れも綺麗に食べ終え、紙ナプキンで口元を拭うと、静かに表情を引き締めてノートパソコンの停止画面へと向き直った。


「味は文句なしに一級品です。この湯引き峰剥がしが、素材の価値を完全に引き出す卓越した技法であることも認めましょう。……ですが、真壁さん」

「ええ。二十分の壁に、五分十秒届いてない」


 俺が先に言うと、久世はわずかに目を見張り、それから実務家の顔で頷いた。

 俺は停止画面の序盤――リンが湯を含ませた晒し布を当て、俺が骨スキの峰を添えている手元を指差した。


「しかもリンとの二人がかりで、湯の温度も、膜の縁が白く浮いて峰を入れる潮時もまだ俺の指先の勘です。美味い肉が焼けたからといって、手順書に『人肌』と書いて基準をまけてくれと頼みに来たんじゃありません」

「……では、なぜ今日この段階で検体をお持ちに?」

「『脂を傷つけずに剥がせる』って現物の証拠を、先に検査室の台へ置いておくためですよ。こはく」

「はいっ。久世さん、これが昨夜のノーカット映像と計量ログを書き出した記録メディアです。手順書に添える比較映像も、温度表示と膜の境界を同じ画面に収めた審査用の形式で揃えておきますね」


 こはくが保護ケースから小さな記録メディアを取り出し、履歴票の隣へ置いた。

 久世は記録メディアを手に取り、生肉検体の皿と交互に見比べてから眼鏡の位置を直した。


「……なるほど。今日の検体と映像は、無傷剥離が可能であるという一次記録として機構で預かりましょう。ただ、手順書の数値を揃えたあと、他の職人による再現はどの形で実証を受けるおつもりですか。真壁さんが隣で補助につく形では、単独で再現できた証明にはなりませんが」

「俺が横から手を貸す気はありませんよ。立ち会いには鳴海工房の職人を一人連れてきます。数字にした手順書で、俺以外の職人が初見の検体を剥がし切るところを検査室で見届けてください」


 久世はしばらく俺の目を見返し、やがて手元のスケジュール帳を開いて万年筆を走らせた。


「……分かりました。そこまで引き受けられるなら、公式な実証の場を設けましょう。二日後の五日目、午後二時。この第一検査室にて公開立ち会い検査を行います」


 久世は万年筆のキャップを閉め、顔を上げた。


「事前培養で適合が確認された同一条件の未開封検体を二本用意します。その場で真壁さん以外の職人が一人で、開封後二十分以内・歩留まり八十パーセント以上で結晶膜を無傷剥離できること。それを実証できれば、温度と時間を明記した『特例手仕込み基準』として、当該本ロースの条件付き承認を出しましょう」


 隣でリンが空になった試食の小皿を保温容器へ重ね、俺が蓋を閉めて保冷ケースに収めた。


「空き箱は持ち帰って洗いますよ。次にここへ来るときは、俺は横でその職人の手元を見守る役に回ります」


 俺たちは久世と固い握手を交わし、その足で鳴海解体工房へと向かった。

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