第11話 四十二度の境界線と乳白のサイン
午後五時半、鳴海解体工房へ到着した俺たちは、すぐさま第一解体台の周りに集まった。
公的な公開配信は切っているが、こはくは手順書作成と解析のために、高倍率の接写レンズをつけたカメラを真上から構えている。
「真壁さん、お待ちしていました。温度比較用の湯煎器は五台とも準備できています」
工房主の鳴海蓮司が、白い衛生衣姿でデジタル温度計の並んだ作業台を示した。
五つの槽にはそれぞれ温度の違う湯が張られ、横には清潔な晒し布とレードル、それに研ぎ上げたばかりの二番手の骨スキが並んでいる。俺の指先の勘を、誰が見ても迷わない数字に置き換えるための舞台だ。
「よし。本番のロースを切り刻んで時間を無駄にするわけにはいかないからな。二頭目と同じ処理ロットで、個別に無酸素密封してもらった比較用の端材五片を使う」
午後六時ちょうど。俺は氷温庫から、親指大の膜付きロース端材が一つずつ真空包装された五つの小袋を取り出した。
これなら一つの袋を開けても、他の端材の空気接触時計は進まない。
「三十八度から四十六度まで、二度刻みで試すぞ。こはく、膜の縁の色をアップで頼む」
「了解です! 高速度録画、スタート!」
俺はまず一片目の袋を開封し、三十八度の湯に浸した晒し布を十秒間当ててから、骨スキの峰を押し当てた。
「……駄目だ、硬い。三十八度じゃ結晶膜の結合が緩まず、真皮が一緒に引っ張られる」
続いて二片目を開封し、四十度で十秒。わずかに端が浮くが、まだ峰を進めるには抵抗が残る。無理に押せば手が疲れて二十分以内には収まらないだろう。
そして四片目と五片目で四十四度、四十六度を試したときには、隣で見ていた鳴海が眉をひそめた。
「四十四度を超えると、膜の下の琥珀脂が緩みすぎて骨スキの峰が滑ってしまいますね。昨日の六十度ほどではありませんが、表面の脂が白く濁って膜が張り付きます」
「……融点が低いから、二度違うだけで脂の表情が変わる」
リンも端材の断面を覗き込み、小さく頷いた。
残るは三片目――『四十二度』だ。
俺は三片目の小袋を切り開き、きっちり四十二・〇度に保った湯を晒し布に含ませて、結晶膜の上へ十秒間乗せた。
布を外した瞬間、モニターを覗き込んでいたこはくが「あっ!」と声を上げた。
「大将、鳴海さん、これ見てください! 今、コマ送りで再生します!」
こはくがタブレットの画面を拡大した。
そこには、透き通った琥珀色の結晶膜の縁だけが、十秒経過した瞬間にスッと一ミリ幅の『乳白色の線』へ変わる様子が鮮明に映し出されていた。脂が溶け出す温度には届かず、結晶膜と真皮を繋ぐ接着層だけが熱で緩んだサインだ。
「四十二度で十秒……。指先の勘じゃなく、この白い線が浮いたところへ峰を入れればいいのか!」
俺は三片目の白い線へ骨スキの峰を添えた。
力を込める必要すらなかった。峰の重みだけで、結晶膜がツルリと真皮から剥がれ落ちた。
「これだ。布でちびちび拭うんじゃなく、四十二度の湯を直接レードルで回しかけて、乳白色の線が出た端から一気に峰を走らせる!」
温度と視覚の合図が特定できた。
俺たちはすぐさま本番サイズの検証へ移った。氷温庫から二頭目の『左本ロース』の無酸素パックを取り出し、事前培養の適合証明と保冷履歴を照合する。剥離前の正味重量は二千五百グラムだ。
午後七時ちょうど。俺はハサミで左本ロースの袋を開封した。
ストップウォッチが動き出す。今回はリンに布絞りを頼まず、俺一人で四十二度の湯をレードルですくい、ロースの端から結晶膜の表面へ静かに回しかけた。
一、二、三……十秒。
琥珀色の膜の縁に、先ほどと寸分違わぬ乳白色のラインがスッと浮かび上がった。
「……よし、見えるぞ」
俺は二番手の骨スキの峰を浅い角度で寝かせ、その白い境界線へ滑り込ませた。
昨日のように五センチずつ止まる必要はない。左手で剥がれた膜の端を軽く持ち上げ、四十二度の湯を追いかけさせながら、乳白色に変わった境目を峰の背でなぞっていく。
シュルシュル、と絹の帯を解くような軽やかな音が解体台に響いた。
湯温が四十二度に固定されているため、下の琥珀脂は少しも溶けず、硬い盾のようだった結晶膜だけが面白いように浮き上がってくる。リンも鳴海も息を呑んで見守る中、俺は一度も刃先を肉へ食い込ませることなく、ロースの端から端まで峰を走り抜けさせた。
パサリ、と結晶膜が一枚のシートになってまな板へ剥がれ落ちる。
「ストップ! ……タイム、十六分二十秒です!」
こはくの弾んだ声が工房に響き渡った。
昨夜の二十五分十秒から、実に八分五十秒もの短縮だ。久世が掲げた『二十分以内』の壁を、一人作業で三分半以上の余裕を残して突破してみせたのだ。
鳴海が剥離後の左本ロースを計量器に乗せ、数字を読み上げる。
「剥離後の可食部重量は二千三百二十五グラム。剥離前二千五百グラムに対して、歩留まりは九十三パーセントです!」
「……すごい。昨日より速いのに、脂の残り方がもっと綺麗」
リンが桜色に輝くロースの表面を見て、静かに目を輝かせた。
俺は骨スキを置いて筋引に持ち替え、断面確認と工房の保存検体にする端の部分を切り分けてから、本店へ持ち帰る塊を清潔なシートで包んだ。
湯気の消えた解体台の上で、剥がし終えたばかりの結晶膜が透き通った帯になって丸まっている。俺一人の手なら十六分二十秒でいける。だが、本番はこれを鳴海のところの若手に渡してからだ。
「見事な手際です、真壁さん。四十二度で十秒、この乳白色のラインなら、うちの若手にもはっきり目で追わせることができます」
記録帳を閉じた鳴海が、ほっと息をついてから奥の氷温庫へ視線を向けた。
「明日の午後には、彼に包丁を握らせます。……それと、氷温庫に残っている二頭分の未利用部位ですが、今夜のうちに工房で引き取る分とお店へ運ぶ分を仕分けておきましょうか」
「ああ、そうだな。リンが二号車の鍋で試したい部位もある」
「……うん。早く帰って、仕込みたい」
うずうずしたように頷くリンの横顔に、俺は苦笑して保冷箱の留め具を引き寄せた。




