第12話 背脂とスネ筋の二号車出汁
午後九時半、防波堤の本店トラックへ戻った私と巧は、持ち帰った部位パックと仕入れ帳を調理台の上に広げた。
先ほど鳴海工房で剥がした二頭目の左本ロースは本店の氷温庫へ収め、まだ営業前の車内で配信カメラは切ってある。
調理台の上には、個別に無酸素包装された二頭目の『スネ筋』千八百グラムと、『背脂』千二百グラムが並んでいた。工房の氷温庫に残してきた肩や脚、骨や一頭目の未利用部位は、鳴海さんが工房の加工・練習・賄い用として有償で引き取ってくれることになり、今ペンで仕入れ帳の控えに書き留めたところだ。
「残るこのスネ筋と背脂は、二号車の仕入れとしてうちからリンへ卸す形にする。ただ、帳面の上で名前を分け合っても、一頭買いの払いが消えるわけじゃない」
「……わかってる。私がこれを三百円の生姜粥にして、毎晩ちゃんとお客さんに売り切って初めて、お店の仕入れが回る」
「おう、なら帳面はここまでだ。ほら、二号車の仕入れ分を渡すぞ。零時までに試作の出汁を引けるよう、さっそく中身を確かめてみろ」
巧が仕入れ帳を閉じ、私の前へ二つのパックを押しやった。
私は透明な袋の上から、赤黒く引き締まったスネ筋と、白く厚みのある背脂に指先を添えた。
「……スネ筋は、繊維がすごく硬い。普通に煮たら、脂が濁って生姜の香りを消してしまう」
「よく見てるな、リン。どう料理するつもりだ?」
「一度下茹でしてアクを洗い流してから、圧力寸胴でスネ筋のコラーゲンだけを抜き出す。背脂は細かく切って別鍋でゆっくり煮出し、一度氷水で冷やして余分な固形脂を取り除く」
私はハサミで二頭目のスネ筋千八百グラムと背脂千二百グラムのパックを開封した。
スネ筋には空気接触で硬化する外皮の結晶膜はないが、太い腱が幾重にも絡み合っている。私は牛刀でスネ筋に深い切り込みを入れ、沸騰した湯でさっと下茹でしてから冷水で表面の汚れを綺麗に洗い落とした。
それを水と生姜の皮、葱の青い部分と一緒に大型の圧力寸胴へ入れ、強火にかける。
シュンシュンと重りが揺れ始めるまでの間に、隣の鍋で千二百グラムの背脂を低温からコトコトと煮出していった。一昨日の豚汁のときと同じように、琥珀脂特有のナッツにも似た甘い香りが車内に満ちていく。
一時間ほどかけて抽出した二つのスープを合わせ、目の細かい晒し布で丁寧に濾してから、鍋ごと氷水に当てて急速に冷やす。
表面に白く固まった余分な脂の層を網杓子ですくい取ると、その下から、透き通った黄金色の『琥珀背脂とスネ筋の澄まし出汁』が現れた。
「……よし。明日、鳴海さんの工房へ持って行って本仕上げをする分は氷温庫へ入れておく。今夜は、このお玉二杯分だけで試作の粥を炊く」
時計の針が零時を指した。
私たちは配信カメラの電源を入れて手元だけを映す通常配信を開始し、本店と二号車の暖簾を同時に掲げた。仕入れ帳の具体的な金額は画角の外へしまってある。
検証期間中の約束通り、私は零時から零時四十五分までの限定で二号車の窓口を開け、昨夜仕込んでおいた鶏ガラベースの生姜粥二十食を夜勤明けの港湾労働者たちへ手際よく提供した。
あっという間に寸胴が空になり、二号車の『本日完売』の札を出した私は、小鍋で炊き上げたばかりの新しい試作生姜粥を持って本店のカウンターへと回った。
「大将、並肉丼ごちそうさまでした。……おや、リンさん、その小椀は?」
本店のカウンター席で並肉丼を平らげたばかりのガルシアが、鼻をひくつかせて顔を上げた。
手元を映す配信画面のコメント欄にも、『二号車の粥だ!』『いや、いつもより色が黄金色っぽくないか?』『湯気のツヤが違うぞ』と気づいた視聴者の文字が流れていく。
「……ガルシア。二号車の新しい出汁の試作。味を見てほしい」
私は小椀によそった生姜粥を二つ並べ、ガルシアと、隣で手を止めた巧の前へ差し出した。
ガルシアは大きな手でスプーンを取り、湯気の立つ粥をすくって口へ運んだ。
その瞬間、岩のような大男の目がかっと見開かれた。
「……っ! リンさん、これ……!」
ガルシアは言葉を探すより先に、二口目、三口目と立て続けにスプーンを運んだ。
千切り生姜の爽やかな香りのすぐあとから、とろりと米粒に絡んだ出汁が喉を通り、岩のような大男の肩からふっと力が抜ける。あっという間に小椀の底までさらうと、ガルシアは熱い息を吐いて自分の分厚い胸板を叩いた。
「いつもの鶏ガラの粥も好きですが、これは胃の底からじわっと火が灯りますね。脂っこくないのに、お肉の甘い余韻がずっと残る。……リンさん。オカワリ、アリマスカ」
「……今夜は、試作のその一杯だけ」
私が首を振ると、ガルシアが本気で惜しそうに空の小椀を覗き込んだ。
隣で自分の小椀を味わっていた巧も、最後の一口を飲み込んで静かにスプーンを置いた。
「スネ筋のゼラチンと琥珀背脂の澄んだ甘みが、生姜の輪郭を少しも邪魔せずに下から支えてる。……まいったな。今の鶏ガラ粥を超えるぞ、これ」
手元だけを映す配信画面のコメント欄にも、『スネ筋と背脂の澄まし出汁か!』『ガルシアさんのスプーンが一瞬で消えた』『大将がそこまで言う新生姜粥、夜勤明けに絶対食べたい』と次々に文字が流れていく。
私が欲しかった、冷えた背中まで温める最後のひと押しが、ちゃんとこの小椀の中にある。
「……うん。氷温庫の残りの出汁は、今日、鳴海さんの工房へ持って行って本仕上げをする」
「ああ。今日の午後は、いよいよ鳴海のところの若手が本ロースに挑む番だ。向こうのコンロも借りて、一番いい状態で仕上げよう」
私は二つの空になった小椀を重ねて胸に抱え、湯気の残る調理台をもう一度見渡した。




