第13話 元後輩の手元と焦りの刃筋
四日目の午後一時、俺とリン、こはくの三人は再び鳴海解体工房の暖簾をくぐった。
第一解体台の前には、工房主の鳴海と並んで、緊張した面持ちの若い職人が立っていた。かつて俺と同じクランの解体部門に所属し、今は鳴海の工房で腕を磨いている元後輩の職人だ。
「真壁さん、本日はよろしくお願いします。……彼には昨夜の四十二度の録画を繰り返し見せて、手順を頭に入れてもらいました」
「ああ、久しぶりだな。今日はテストじゃない、明日の公開検査に向けたすり合わせだ。肩の力を抜けよ」
俺が声をかけると、元後輩は「はいっ、真壁さんの足手まといにならないよう頑張ります!」と深々と頭を下げた。
だが、その指先は白くなるほど骨スキの柄を握り締めている。鳴海が事前に平坦な砥石で面直しを行い、峰の角まで滑らかに整えた万全の骨スキだが、扱う人間の肩が上がっていては刃筋が狂う。
「こはく、今日も手順確認用のローカル録画を頼む。一般配信は切るぞ」
「了解です! 手元の角度がよく見えるように横からもカメラ回しますね」
俺は工房の氷温庫から、買い取った二頭目の『右本ロース』の無酸素パックを取り出した。
二十四時間迅速培養の適合証明と、零度から二度の連続保冷履歴(これで採取から八十六時間経過、未開封九十六時間の上限内だ)を鳴海と一緒に確認する。剥離前の正味重量は二千五百グラム。
「目標は開封から二十分以内、歩留まり八十パーセント以上だ。四十二度の湯をかけて十秒、膜の縁が乳白色に変わったら峰を滑らせる。俺は手を出さないから、最初から最後までお前の手でやってみろ」
「はいっ!」
午後二時ちょうど。鳴海がハサミで右本ロースの袋を切り開いた。
ストップウォッチがスタートする。元後輩はレードルで四十二度の湯をすくい、琥珀色の結晶膜の端へかけた。
十秒後、膜の縁にスッと乳白色のラインが浮かび上がる。
ここまでは手順通りだった。元後輩は骨スキを逆手に持ち、浮き上がった白い境目へ峰の背を当てた。
最初の一、二センチは綺麗に剥がれた。
だが、チラリと横のストップウォッチの数字を見た瞬間、元後輩の呼吸が浅くなった。『二十分以内に剥がさなければならない』という焦りから、湯が十分に回っていない中央部へ先走って峰を押し進めてしまったのだ。
グッ、と峰の角度が深く立ち、真皮の下の柔らかい琥珀脂へ食い込むのが見えた。
「あっ……!」
無理に押し切ろうとした峰が脂層をえぐり、剥がれた膜の裏側に白い脂がべったりと付いてきてしまう。
一度リズムが崩れると、手元はさらに焦る。元後輩の額から汗が吹き出し、包丁を持つ右肘が脇から大きく離れていった。このまま進めば、中盤以降の脂を半分近く削り落としてしまう。
隣にいた鳴海が思わず一歩前に出かけたのを、俺は片手で静かに制した。
ここで俺が包丁を奪って代わりに剥がしてしまえば、この右本ロースは綺麗に残るかもしれない。だが、それでは明日の公開検査で、俺以外の職人が再現できる証明にはならない。
「手を止めろ」
俺は解体台の向かい側から、静かだが通る声で言った。
元後輩がびくりと肩を震わせ、骨スキの動きを止める。時計はまだ八分を過ぎたところだ。まだ十分に間に合う。
「時計を見るな。見るのは膜の縁の白い線だけだ。……今、早く剥がそうとして右手で峰を斜め下へ押し込んでるぞ」
「す、すみません、つい力が……」
「峰で肉を押すな。左手で剥がれた膜を少しだけ上へ引き上げてみろ」
元後輩が言われた通り、左手の指先で結晶膜の端をピンと持ち上げた。すると、真皮と膜の境目にわずかな隙間が空き、四十二度の湯がスッと奥へ流れ込んだ。
「そうだ。右肘を脇につけて、骨スキの峰をまな板に対して十五度くらいに浅く寝かせる。押すんじゃなく、浮き上がった膜の隙間へ峰の重みを乗せて、横に滑らせるだけでいい」
元後輩は深く息を吸い込み、右肘を脇へ戻して骨スキの角度を浅く寝かせた。
改めて四十二度の湯を十秒当て、浮き上がった乳白色のラインへ、力を抜いた峰をそっと添える。
スルスルッ――と、嘘のように軽い音を立てて結晶膜が剥がれ始めた。
「……っ! 見えました、境目の白い線! 押さなくても、峰が勝手に滑っていきます!」
元後輩の顔がぱっと輝いた。
そこからの後半半分は、見違えるような手つきだった。左手で膜の張りを保ち、白い線が浮いたところだけを浅い角度の峰でなぞっていく。後半は脂をほとんど傷つけることなく、最後の一筋まで自分の手で剥がし切った。
「ストップ! タイムは十九分四十秒です!」
こはくが時計を止めた。二十分以内の時間制限はクリアしている。
だが、鳴海が剥離後の右本ロースを計量器に乗せると、画面の数字は『一九五〇グラム』を示した。
「剥離前二千五百グラムに対して、可食部千九百五十グラム……歩留まりは七十八パーセントです。前半で脂をえぐった分が響いて、合格基準の八十パーセントにあと二パーセント届きませんでした」
元後輩が悔しそうに唇を噛んだが、俺はその肩を軽く叩いた。
「後半の半分だけなら歩留まり九割を超えてたぞ。感覚はもうお前の手に入ってる」
「……はい! 後半は、膜の重みだけで剥がれる感触がはっきり分かりました!」
衛生状態には全く問題がないため、この千九百五十グラムのロースは本店の販売在庫には混ぜず、全量を鳴海工房での練習・検食・自家消費用に割り当てることにした。
こはくがすぐさま後半の成功映像から『峰の角度十五度』の静止画ガイドを作成する横で、鳴海が時計を見て言った。
「真壁さん、今掴んだ感覚を忘れないうちに、今日の夕方に最終の模擬剥離をもう一度やらせてください。葛城さんに連絡して、供給元からこの後の試験用ロースをもう一本、うちの工房の検証費で手配してもらいます」




