第14話 模擬剥離の突破と生姜粥の一番出汁
四日目の午後五時、ダンジョン庁の葛城が保冷ケースを携えて鳴海解体工房へ駆けつけてくれた。
「真壁さん、鳴海さん、お待たせしました。供給元の採取施設に保管されていた同一条件の未開封本ロースを、追加の有償試験用として一本押さえてきました」
「助かります、葛城さん。代金はうちの工房の検証費として精算させてください」
鳴海が礼を言い、受け取った無酸素パックの事前培養適合証明と零度から二度の連続保冷ログ(これも採取から九十六時間以内の適合ロットだ)を照合した。剥離前の正味重量は、先ほどと同じ二千五百グラムである。
こはくがローカル記録用のカメラを再び回し、元後輩が第一解体台の前に立った。
「さっきの映像を鳴海さんと見直して、一つ気づいたことがある」
俺は開封前のパックの中央――背峰に近い一番盛り上がった部分を指差した。
「ロースの真ん中あたりは、端に比べて結晶膜が一番分厚くなってる。ここへ端と同じように一回だけ湯をかけても、十秒では熱が膜の底まで届かない。さっきお前が中盤で引っかかったのは、焦りだけじゃなく、中央の膜がまだ緩みきっていなかったせいもある」
すると鳴海が頷き、手順書に赤ペンで一行書き加えた。
「ええ。ですから、最も膜が厚い背峰側の中央部には、最初に四十二度の湯を一度かけ、五秒置いてから『二度掛け』して十秒数えます。これで端から中央まで均一に乳白色のラインが浮くはずです」
「左手の引き上げと、峰の角度十五度。それに中央の二度掛けですね。……やれます、やらせてください!」
元後輩の声には、昼間の硬さが消え、職人としての落ち着いた芯が通っていた。
午後六時ちょうど。鳴海がハサミで追加試験ロースの袋を開封した。
ストップウォッチが時を刻み始める。
元後輩はまず背峰の厚い部分へ四十二度の湯を一回しし、続いて端からもう一度丁寧に湯をかけて十秒を数えた。
すると、結晶膜の端から分厚い中央部にかけて、くっきりとした乳白色の境界線が一本の道のように浮かび上がった。
「……よし、入ります」
元後輩は右肘を脇に固定し、骨スキの峰を十五度の浅い角度で白い線へ滑り込ませた。
左手で剥がれた膜を軽く引き上げ、浮いた隙間に峰の重みを乗せていく。昼間につまずいた中央の厚い部分に差しかかっても、二度掛けした四十二度の湯が接着層を綺麗に緩めており、峰は一度も引っかかることなくスルスルと進んでいった。
俺も鳴海も、一言も口を挟まなかった。
解体台の上には、湯をかける静かな水音と、結晶膜がペリペリと真皮から剥がれる小気味よい音だけが響く。
そして開封から十八分が経つ前、元後輩の手元から最後の結晶膜がパサリとまな板へ落ちた。
「ストップ! ……タイム、十七分五十秒です!」
こはくの歓声と同時に、鳴海が剥離後の本ロースを計量器へ乗せた。
傷ひとつない純白の琥珀脂を纏ったロースが、秤の上でつややかに光っている。
「剥離後の可食部重量、二千百五十グラム! 剥離前二千五百グラムに対して、歩留まりは八十六パーセントです!」
二十分以内・歩留まり八十パーセント以上。
久世が提示した厳格な再現基準を、俺が一切手を触れることなく、鳴海工房の若手が自力で突破してみせた瞬間だった。
「やった……! 真壁さん、鳴海さん、俺にも剥がせました!」
「見事だ。温度と合図、それに角度さえ揃えば、誰が切ってもこの品質が出せるって証明だ」
葛城も「素晴らしいですね……! これなら明日の公開検査でも、機構の審査官たちにぐうの音も言わせませんよ」と安堵の息をついて胸を撫で下ろした。鳴海が秤の上のロースを手早くシートで包み、工房の検証分として奥の氷温庫へ収める。元後輩はようやく骨スキを置き、柄を握りしめていた指先をゆっくりと開いた。
そこへ、工房の奥のコンロから、黄金色の湯気を立てる寸胴を運んできたリンが静かに声をかけた。
「……みんな、お疲れさま。二号車の生姜粥出汁、本仕上げができた」
昨夜の本店でスネ筋と背脂から引いて冷やしておいた澄まし出汁を、今日ここへ持ち込んで仕上げた一番出汁だ。寸胴の内側では、濁りひとつない澄んだ出汁が甘い香りを漂わせている。
リンが人数分の小鉢に出汁を注ぎ、千切り生姜をひとつまみずつ浮かべて配って回る。
俺たちはまだ温かい小鉢を受け取り、一口すすった。
「……っ、ああ、これは美味い……」
模擬剥離を終えて緊張が解けた元後輩が、目を閉じて深いため息を漏らした。
琥珀背脂の気品ある甘みと、スネ筋から溶け出した濃厚なゼラチンの旨みが、生姜の爽やかな香りと一体となって五臓六腑に染み渡っていく。鳴海も葛城も「一頭買いの端材からこれほどの出汁が引けるとは」「胃の奥まで温まりますね」と笑顔で小鉢を空にした。
元後輩が両手で包んでいた空の小鉢へ頭を下げ、リンが小さく頷いて人数分の器を重ねた。
リンは寸胴に残った出汁を氷水で手早く急冷し、店へ持ち帰るステンレス容器へ移して保冷ケースに収める。横ではこはくがローカル録画のデータを保存して明日提出する手順書の整理を始め、鳴海は元後輩が使った骨スキを受け取って峰の具合を確かめ直していた。
「模擬はここまでだ。明日の検査室でも、自分の手元だけを見てやれ。……腹が温まったうちに、今夜はしっかり休んでおけよ」
「はいっ! 真壁さん、リンさん、ごちそうさまでした!」
ようやく普段の顔に戻った元後輩の返事に頷き、俺は出汁の入った保冷ケースの留め具をパチンと締めた。




