第15話 検査前夜の研ぎと静かな晩酌茶
四日目の夜、二十三時三十分。防波堤に吹く潮風は冷たいが、並んだ二台のフードトラックの周りにはすでに温かい出汁の香りが漂っていた。
私は『まかべ食堂 二号車』の調理台で、夕方に鳴海さんの工房から持ち帰った琥珀背脂の出汁を今夜の二十食分だけ小鍋に取り分け、静かに火を入れた。澄んだ黄金色の液面がゆっくりと温まっていく。隣の母屋となる本店トラックでは、巧がいつもの手順で寸胴の火加減を確かめ、タレの瓶を並べている。
「……リン、二号車の生姜粥、準備はどうだ」
「いつでも出せる。二十食分、米の吸水も終わった」
「よし。五日目の深夜零時、開店だ。こはく、手元のカメラを頼む」
「了解です! 『おっさんの解体キッチン』、通常営業配信スタートします!」
日付が五日目に変わった深夜零時ちょうど、二台の暖簾が同時に夜風へ揺れた。
手元だけを映す配信カメラの赤いランプが灯り、待っていた常連客たちが順番に列を進めていく。検証期間中の今夜も、本店の剥離済み還流猪ロース三・五キロはまだ氷温庫に温存したままだ。本店では巧が通常規格の並豚バラ肉を使った豚丼を焼き上げ、私は二号車の窓口で一杯三百円の生姜粥をよそっていく。
「おまちどう。熱いうちにどうぞ」
「おう、リンちゃん、この新しい出汁の粥、昨夜こはくちゃんの配信で見てからずっと食いたかったんだよ!」
どんぶりを受け取った夜勤明けの客が、ふうふうと息を吹きかけて粥を啜り、目を丸くして「うめえな、これ!」と声を上げた。
二頭目のスネ筋と背脂から丁寧に引いた黄金色の出汁が、米の一粒一粒に深い甘みとコクを纏わせている。おろし生姜の爽やかな辛みが後味を引き締め、二十食分の粥はまたたく間に次々と出ていった。
零時四十五分、用意していた出汁一リットル分を使い切って二号車の二十食が完売する。私は「完売御礼」の木札を窓口に掛け、手早く二号車の鍋を拭いてから、約束通り本店のカウンター内側へと合流した。
「……二号車、売り切った。後半の盛り付け、代わる」
「助かる。飯と味噌汁を頼むぞ」
そこからは巧が鉄板で肉を焼き、私が白飯と汁物をよそって盆を送り出す息の合った分担で、深夜二時の閉店まで一人の客も待たせることなく捌き切った。
午前二時を回り、最後の客を見送って暖簾をしまう。こはくが「配信、定刻で終了しました!」とカメラの電源を完全に切ったのを確かめてから、私たちは本店トラックの調理台を囲んだ。
「大将、リンさん、お昼の公開検査の告知枠、もう待機視聴者が六桁を超えちゃってます。……久世さんの許可も下りたので、検査室のカメラ配置はこれでいきますね」
こはくが見せてくれた端末には、まな板の真横から結晶膜の断面角を捉える固定カメラに、湯温計と経過タイマーを一画面へ並べたレイアウトが表示されていた。
私は温度表示の横に空けられたスペースを見て、自分がレードルを差し入れる位置を確かめる。
「見やすいな。余計な演出はいらない、手元の角度と温度だけそのまま映してくれ」
打ち合わせを終えた巧は、調理台の横に据えた砥石へ静かに水を張った。
まず溝の入った修正砥石を当て、シャリ、シャリと一定の力で擦り合わせて、砥石の表面を寸分の狂いもない水平に整えていく。数日間の反復検証でわずかに窪んだ砥面を平らに戻す、妥協のない手つきだった。
それから巧は現役の二番手である骨スキと筋引を手に取り、整えたばかりの砥石へ刃を乗せた。
シャッ、シャッ、と澄んだ金属音が深夜の防波堤に響く。
刃先だけでなく、今日の『湯引き峰剥がし』の要となる骨スキの峰の角まで、指の腹で滑らかさを確かめながら青棒で鏡のように磨き上げていく。研ぎ上がった骨スキの峰が、窓から差し込む月明かりを静かに跳ね返した。
包丁を乾いた布で拭き上げた巧は、トラックの棚の上に置かれた白い布包み――かつて十年間の相棒として役目を終えた先代包丁に向かって、黙って一度だけ深く頭を下げた。
「よし、道具の支度はこれでおしまいだ。こはくも昼の検査に備えて、帰ってしっかり寝ろよ」
「はいっ! 大将、リンさん、またお昼に検査室で!」
機材バッグを背負って駆けていくこはくを見送ると、防波堤には波の音と私たち二人だけが残った。
私は保冷庫の容器から二人分の背脂出汁だけを小鍋に取り分け、残りは氷温庫の奥へきっちり収めた。温めた出汁に薄口醤油をほんの数滴垂らし、針生姜を散らして二つの椀に注ぐ。
「……巧。研ぎ上がり、お疲れさま。晩酌茶の代わり」
「ああ、ありがたくいただく」
カウンターの外の丸椅子に二人で肩を並べて腰を下ろし、湯気の立つ椀を両手で包んで一口啜った。
琥珀背脂の澄んだ甘みと生姜の温もりが、喉から胃の奥へとじんわり広がり、夜の冷気を優しく溶かしていく。隣に座る巧の肩の力が、ふっと抜けるのが伝わってきた。
「……気負いはないか、巧」
「ないさ。骨スキの峰はいい顔になったし、あんたの出汁で腹も温まった。あとは昼にいつも通り手を動かすだけだ」
巧は椀を空にすると、立ち上がって時計を見た。時刻は午前三時三十分になろうとしている。
巧が寸胴とコンロの元栓をキュッと閉め、厨房の火を完全に落とした。
「さあ、椀をゆすいだら寝るぞ。昼前に起きるまで、しっかり目を閉じておけよ」
「……うん。昼の立ち会いが終わったら、今夜は本店の生姜焼きも待ってる」
「ああ。二号車の粥と並べて、腹いっぱい食わせてやらないとな」
私は二つの空の椀を重ねて流しへ運び、巧の隣で静かにトラックの灯りを落とした。




