第16話 立ち会い検査と断面カメラの証跡
五日目の午後一時三十分。広域鮮度流通機構の第一検査室には、張り詰めた静寂が満ちていた。
私――統括検査官の久世誠司は、白衣の袖を正し、中央のステンレス製解体検査台に並べられた二袋の無酸素個別包装パックを厳密に検分していた。隣には三名の機構検査員が控え、記録用の端末を構えている。
「真壁さん、鳴海さん、そしてダンジョン庁の葛城主任。定刻前のご参集、感謝します」
私が一礼すると、真壁巧さんと天宮凛さん、鳴海解体工房の鳴海蓮司さんとその若手の職人、そして配信機材をセッティングする白瀬こはくさんが静かに頷き返した。
私はまず、葛城主任と鳴海さんから提出された前日までの追加検証データを手元のタブレットで開いた。湯温の比較映像に続いて、昨日夕方の若手職人さんのローカル記録が入っている。一度目は未達。そのあとの試行で、彼は自分の手で結晶膜を剥がし切っていた。
未達に終わった一本も、記録から削られずに並んでいる。これを事前資料として受け取れば、その責任はこの先、私が負うことになる。
「温度と乳白色の境界線を手順書へ落とし込んだ検証記録、すべて拝見しました。事前資料として正式に受理します」
「ありがとうございます。手順書と彼の骨スキの点検は済ませてあります」
鳴海さんの返答に頷き、私は本番用に機構が用意した二本の『還流猪・本ロース』の検体記録をモニターに表示させた。
いずれも未開封のまま、採取後の一次処理と連続保冷の履歴はすでに規定通り照合を終えている。あわせて三日目の午前十一時以前から進めていた、同一処理ロットの別密封衛星検体による四十八時間の事前培養も、本日午前十一時の判読で一般生菌数および衛生基準への適合が確定していた。
控えの検査員が、洗浄済みのまな板二枚と骨スキ、バット類に対する当日ATPふき取り検査の実測値を端末へ転送してくる。
「開封前の衛生照合はすべて適合です。この先は開封直後の肉本体の計測と剥離実技、さらにその後の中心加熱検査を別個の審査として順に判定します」
私が審査区分を告げると、真壁さんは静かに頷き、隣の天宮さんと保温寸胴の湯温表示を確かめ合った。
私は検査台に置かれた二つの無酸素パックを指差した。
「実技の合格条件は、開封後『二十分以内』での完全剥離、可食部歩留まり『八十パーセント以上』、真皮および赤身の損傷ゼロです。……ただし本日は、手順の再現性と個体差への応用を同時に見極めるため、一つ条件を出させていただきます」
私は左側の標準的なパックと、右側の一回り大きく盛り上がったパックを示した。
「左の標準サイズの本ロース、正味二千五百グラムは、鳴海工房の若手職人さんに単独で捌いていただきます。そして右側の大型個体の本ロース、正味三千二百グラム――こちらは通常より結晶膜が厚く張っていますが、真壁さんに担当していただきたい。お二人同時に開封し、同じ二十分以内の基準で挑んでいただきます」
検査室に小さな緊張が走った。
鳴海工房の若手職人さんがゴクリと唾を飲み込むのが見えたが、すぐに背筋を伸ばして「はい、やらせていただきます!」と力強く返事をした。真壁さんも大型ロースのパックをひと目見て、琥珀色の膜の厚みを確かめるように目を細めただけで、「分かりました。本番に個体差はつきものですからね」と静かに受け入れた。
「白瀬さん、機構許可のもと、公開検証配信の接続をお願いします。画角は断面角、四十二度の温度計、およびタイマーのみとし、音声と計測表示を公開してください」
「はいっ、久世検査官! カメラ三台、温度計・タイマー連動完了……十四時ちょうど、公開検証配信スタートします!」
午後二時零分零秒。
白瀬さんの合図で配信が繋がり、待機していた十数万人の視聴者の前へ第一検査室の映像が公開された。
同時に二人の検査員がハサミを入れ、二袋の無酸素パックを同時に開封した。この瞬間が空気接触の起点であり、三十分の硬化時計が動き出す。検査員が直ちに表面pHと深部温度を測定し、「標準ロース、深部一点二℃、pH五・八! 大型ロース、深部一点一℃、pH五・八! ともに正常です!」と記録した。
「作業開始!」
私の号令とともに、真壁さんと若手職人さんが一斉にレードルを取り、保温寸胴から四十二度の湯を掬い上げた。
開封されたばかりの還流猪の琥珀膜が検査室の白い照明を弾き、そこへ人より少し温かい湯が静かに回しかけられる。二人の職人の整然とした所作に、検査室の空気がぴんと引き締まった。
配信画面のコメント欄にも『始まった!』『今日は大将だけじゃなく若手の人も同時か』『四十二度の湯温計が出てるぞ』と固唾を呑む声が流れていく。
若手職人さんは昨日の練習通り、まず背峰側の中央へ一度湯を掛け、五秒置いてから端から中央へ二度掛けを行った。十秒後、標準ロースの縁にくっきりとした乳白色のラインが浮かび上がる。若手職人さんは右肘を脇につけ、骨スキの峰を十五度の浅い角度で当てて、滑らかに結晶膜を剥がし始めた。
その手つきは実に安定しており、脂を一切えぐることなく順調に白い境界線を進めていく。
だが、開封から十分が経過した十四時十分零秒。
私は隣の真壁さんの手元を見て、思わず息を呑んだ。
三千二百グラムの大型ロースの中央、最も盛り上がった背峰のあたりに、標準サイズの二倍近い厚みを持つ硬い『結晶の節』が居座っていたのだ。四十二度の湯を二度掛けしても、その節の中心部だけは琥珀色のまま透き通っており、乳白色のラインが途中で途切れている。
タイマーの数字はすでに十一分を回り、十二分に迫っていた。
私はストップウォッチを握りしめたまま、結晶の節の前でぴたりと止まった真壁さんの骨スキの峰を注視した。




