第17話 二本の骨スキと無傷の琥珀脂
開封から十二分が経過した午後二時十二分。
第一検査室の照明の下で、俺は三千二百グラムの大型本ロースの背峰に居座る分厚い『結晶の節』を見つめていた。
隣の作業台では、鳴海工房の元後輩が標準サイズの二千五百グラムのロースを相手に、落ち着いたリズムで骨スキの峰を滑らせている。スルスル、ペリペリと結晶膜が真皮から剥がれる軽い音が響き、すでに全体の三分の二以上を無傷で終えようとしていた。
一方、俺の目の前にある大型ロースは、背峰の中央幅五センチほどにわたって魔素結晶が節のように分厚く凝り固まっている。
通常の二度掛けだけでは、四十二度の熱が節の底の接着層まで届いていない。断面カメラのモニターを見つめる久世さんの眉がわずかに寄り、配信のコメント欄にも『あれ、大将の方のロース、真ん中が白くなってないぞ』『膜が分厚すぎるんじゃないか?』『もう十二分過ぎてる!』と焦りの声が流れているのが視界の端に入った。
ここで俺が昔からの手の勘だけを頼りに、骨スキの峰を強引に押し込んで剥がすことはできなくもない。
だが、力を込めれば真皮が裂ける危険があるし、何より『真壁巧にしかできない力技』を使ってしまえば、今日ここで手順書の有効性を証明する意味が消えてしまう。時間をかけすぎれば周囲の膜が冷えて硬化が始まるが、焦って手順を破るわけにはいかない。
「……リン」
「いつでもいける。お湯、四十二度ちょうど」
俺が短く呼ぶと、隣で保温寸胴の湯温を管理していたリンが、レードルを手に一歩前へ出た。
俺は骨スキの峰の角度を十五度からほんのわずか、十度近くまで浅く寝かせ、左手の指先ですでに剥がし終えた左右両端の結晶膜を両方からピンと持ち上げた。
「この節の真上じゃなく、浮き上がった左右の境目の隙間へ、四十二度の湯を十秒ずつ交互に流し込んでくれ。上から被せるんじゃなく、膜の裏側へ直接熱を通す」
「……分かった。右から、十秒」
リンがレードルの先を傾け、俺が左手で引き上げた結晶膜と真皮のわずかな隙間へ、糸のように細く正確な湯筋を注ぎ込んだ。
一、二、三……とリンが静かに数を数える。十秒間で右側の隙間からじわじわと熱が浸透し、頑固だった結晶の節の右半分に、スッと一ミリ幅の乳白色の線が伸びた。
「次、左から十秒」
俺が持ち上げる指の角度を変えると、リンは寸分の狂いもなく反対側の隙間へ四十二度の湯を追い掛けした。
特別な高温の湯を使うわけでも、特殊な刃物を使うわけでもない。手順書にある『四十二度・十秒』の原則を守ったまま、膜が厚い箇所には浮かせた両脇の断面から熱を回り込ませる応用手順だ。
十秒が経った瞬間、左右から伸びてきた乳白色の境界線が、分厚い結晶節の真下でぴたりと一本に繋がった。
「よし、繋がった」
俺は右肘を脇に添え、浅く寝かせた骨スキの峰をその白い道へすっと乗せた。
押す必要はない。浮き上がった節の隙間に峰の背が滑り込み、ズズッ、ペリリッ――と小気味よい手応えとともに、最も分厚い結晶の節が真皮から綺麗に浮き上がった。
一度節を越えれば、残りの裾野はすでに均一に緩んでいる。俺はそのまま一息に骨スキの峰を走らせた。
その直後、隣の作業台からパサリと乾いた音が響いた。
「よしっ……剥離、完了しました!」
「標準ロース、ストップ! 十四時十八分十秒、所要時間は十八分十秒です!」
元後輩が最後の膜をまな板の端へ置き、検査員がタイマーを止めた。
そこから遅れることわずか三十五秒。俺の手元からも、大型ロースを覆っていた分厚い琥珀色の結晶膜が、一枚の透き通った革のようにパサリとまな板へ剥がれ落ちた。
「大型ロース、ストップ! 十四時十八分四十五秒、所要時間は十八分四十五秒です!」
二枚の結晶膜がほぼ同時に剥がれ落ち、作業台の上に傷ひとつない瑞々しい琥珀脂の層が二つ並んだ。
真皮の裂け目はゼロ。脂のえぐれも一切ない。白い照明を受けて淡い桜色の赤身と艶やかな脂が輝く光景に、検査員たちから「おお……」と感嘆の息が漏れ、断面カメラの向こうの配信画面にも『すげえええ!』『若手の子も十八分台で完璧に剥がした!』『両脇からお湯を入れる応用、これなら現場でも真似できるぞ!』と称賛の弾幕が溢れ返った。
俺は骨スキを置き、隣でほっと肩の力を抜いた元後輩と鳴海に向かって小さく頷いた。
「よくやったな。時計を一回も見ずに、白い線だけを追えてたぞ」
「はいっ! 真壁さん、鳴海さん、手が勝手に動いてくれました!」
そこへ久世さんが歩み寄り、自らの目で二本の本ロースの表面と剥がされた結晶膜の裏側を隅々まで確認した。膜の裏には脂の付着すらほとんどない。
久世さんは頷くと、二本のロースを電子計量器へと乗せた。
「これより剥離後重量および歩留まりを公式記録します。……まず標準サイズ本ロース、剥離前二千五百グラムに対し、可食部重量は『二千百二十五グラム』。歩留まりは八十五パーセント! 合格基準の八十パーセントを五ポイント上回って達成しています」
鳴海が静かに拳を握りしめ、葛城さんも我がことのように顔をほころばせた。
続いて久世さんが、俺が剥いた大型ロースの秤の数値を読み上げる。
「大型サイズ本ロース、剥離前三千二百グラムに対し、可食部重量は『二千九百十二グラム』。歩留まりは九十一パーセント! 二本合わせた剥離後の可食部合計は五千三十七グラム、約五・〇キログラム。双方とも真皮損傷ゼロ、二十分以内・歩留まり八十パーセント以上の基準を完全にクリアしています」
さらに検査員たちが、剥離直後の肉の深部温度とpH、脂の透明度を測定し、使用した器具を洗浄した後のATPふき取り清浄度検査もすべて適合であることを確認した。開封前に照合済みの四十八時間事前培養適合証明および連続保冷履歴と合わせ、生肉段階での品質・衛生のすべての項目に合格のチェックが入る。
時計の針が午後三時を指したところで、久世さんが俺たちの顔を真っ直ぐに見て言った。
「見事な再現性と応用力です。では最終段階として、十五時より附属の調理検証台にて加熱調理および食味検査を実施します。真壁さん、実際に加熱した際に結晶膜の渋み化や異臭が一切生じないか、鉄板へロースを乗せていただけますか」




