第18話 条件付き特例承認と検査官の箸
午後三時ちょうど、第一検査室の奥に設けられた調理検証台から鉄板の熱気が立ち昇った。
私――久世誠司は、温度ロガーのプローブを手に検証台の正面に立った。生肉段階の計測と衛生照合を終えたいま、最後に確かめるのは、実際に火を通したあとの中心加熱基準と、結晶膜の渋み化や異臭が完全に防げているかという一点である。
「では真壁さん、剥離後の可食部合計五千三十七グラムのうち、加熱検査および試食用として標準ロースと大型ロースから百グラムずつ、計二百グラムを切り出して調理をお願いします」
「分かりました。ここからは筋引でいきます」
真壁さんが骨スキから細長い筋引へと持ち替え、まず鳴海工房の若手職人さんが剥いた標準ロースから百グラム、続けてご自身が厚い節を剥がした大型ロースから百グラムを、筋繊維に直角にすっと引き切った。
まな板に並んだ断面には、真皮のすぐ下にある琥珀色の脂層が傷ひとつなく均一な厚みで残っている。五日前の最初の検体のように、結晶膜の微細な残滓や空気接触による劣化がわずかでも残っていれば、熱が加わった瞬間に青臭い異臭が立ち昇り、脂は舌を刺すような渋みへと変質するはずだった。
真壁さんが温まった鉄板へ二枚のロースを乗せた。
ジュウウッ、と軽快な音が弾け、直後に立ち昇ったのは、ナッツや焦がし蜜を思わせる芳醇で甘い脂の香りだった。
控えの検査員たちが思わず鼻を動かし、手元カメラの向こうでも『音がもう美味そう!』『画面越しでも甘い匂いがしてきそうだ』とコメントが流れていく。
真壁さんは強火で表面を焼き縮めるのではなく、琥珀脂の膜際だけを低温からじっくりと溶かし出し、その透明な脂で桜色の赤身を包み込むように火を通していく。焼き色が乗ったところで、天宮さんが小皿に用意していたおろし生姜と醤油ダレを、鍋肌へほんの少しだけ回し入れた。
香ばしい湯気が一気に立ち昇り、真壁さんが火を止めて肉の最も厚い中心部へプローブの先端を案内する。
「久世さん、中心温度をどうぞ」
「……はい。中心温度七十五度到達。これより一分間の保持を計測します」
私は手元のタイマーと温度表示を注視した。事前の培養適合や清浄度とは独立した調理段階の安全基準として、中心部七十五度・一分以上の保持を実測する。秒針が一周し、表示は一度も下がることなく安定した数値を刻み続けた。
「一分経過。中心加熱基準、適合です」
白い皿に盛り付けられた二種類のロースが、検証台の前へ並べられた。
私は背筋を正し、まず鳴海工房の若手職人さんが単独で剥離した標準ロースの一切れを箸でつまみ、口へと運んだ。
歯を入れた瞬間、サクッと小気味よく繊維がほどけ、透き通った琥珀脂の甘みと生姜の香りが口いっぱいに広がった。
一昨日の会議室で試作品を食べたとき以上に、焼きたての脂は瑞々しく澄み切っている。舌の奥を探っても、あの針で刺すような渋みや雑味は微塵も残っていなかった。
続けて私は、真壁さんが両脇から湯を流し込んで剥がした大型ロースの一切れも口にした。分厚い結晶の節が居座っていた背峰の中心部でありながら、真皮際の脂は一切えぐれておらず、標準ロースと変わらない深い甘みがすっと喉へ落ちていく。
隣で試食を行った三名の検査員たちも、箸を止めて顔を見合わせた。
「……渋み、異臭ともに皆無です。標準ロースも大型ロースも、脂の澄み方と後口に一点の曇りもありません」
検査員の報告を受け、私は残りの一切れへ伸びかけた自分の箸を静かに皿の縁へ置いた。これ以上は検査ではなく、ただの食事になってしまう。
私はハンカチで口元を押さえ、真壁さん、天宮さん、鳴海さん、そして固唾を呑んでこちらを見つめている若手職人さんに向かって一礼した。
「……見事な手仕事でした。鳴海工房の若手職人さんが手順書通りに標準個体を剥がし切り、大型個体の厚い結晶節も、同じ四十二度の原則を応用して無傷で処理できることが目の前で実証されました。この結果をもって、検査官である私が流通承認の責任を引き受けます」
若手職人さんの目元がぐっと潤み、鳴海さんがその肩を黙って一度叩いた。
時計の針は午後五時を指そうとしている。私は公開配信のカメラに向き直り、最終決定を告げた。
「本日十七時をもって、近郊定着層産『還流猪・本ロース』に対する仮流通停止処分を解除し、条件付き特例流通を正式に承認します。適用条件は三点。第一に、討伐後三時間以内の血抜き・予冷および無酸素個別包装と零度から二度の連続保冷管理。第二に、同一処理ロットの事前培養適合証明。そして第三に、本日実証された『四十二度湯引き峰剥がし』の講習を修了した登録工房において、所定の衛生管理のもと開封後二十分以内・歩留まり八十パーセント以上で剥離し、中心加熱基準を守って提供することとします!」
私が承認書に電子署名を入れると、検査室に温かな拍手が満ち、白瀬さんの配信画面も祝福のコメントで埋め尽くされた。十七時ちょうど、白瀬さんが公式検証配信の終了を告げ、カメラの電源が完全に切られた。
配信終了後、検査室の隅で実務の精算と引き渡しが行われた。
ダンジョン庁の葛城主任から、真壁さんが試作二頭分の検証や砥石の面直し・研ぎ直し等に費やした負担に対する『一回限りの検証作業協力費』が、試験勘定として別途精算される。それとは明確に切り離し、本日の本番検査で剥離された可食部五千三十七グラムから試食用二百グラムを差し引いた残り四千八百三十七グラムについては、真壁さんが食堂の仕入れとして通常の卸値で有償買い受けの手続きを取られた。
「受領のサインはこれでいいですね。切り口が乾かないうちにシートで包んで、重い大型の方を下にして詰めていきます」
「ええ、代金の決済と出庫時の保冷記録もこれで完了です。検査済証を添えてありますので、冷気が逃げないうちにケースへどうぞ」
保冷ケースへ本ロースを収める真壁さんと天宮さんの手つきを見ながら、私は承認書の控えを鞄にしまった。通常規格の高速解体ラインとこうした手仕込みの特例を今後どう制度として並立させていくか、機構としての課題はまだ始まったばかりだ。
だが、今夜ばかりはもう一つ、私個人として確かめたいことがあった。
「真壁さん、天宮さん。今夜のまかべ食堂は、この本ロースで生姜焼き定食が復活するのですよね」
「ええ。深夜零時からです」
「では今夜は検査官としてではなく、一人の腹を空かせた客として、防波堤の列に並ばせてもらいますよ。……検査室の二切れだけでは、どうしても白飯が恋しくていけませんから」




