第67話 前夜の研ぎ水と二人の仕込み場
十九日目の午後、広域鮮度流通機構の検証室から本店へ戻った俺は、洗い上げた大寸胴と白いネル布をフードトラックの荷台脇へ並べていた。
昼の予備検体で使った二番手包丁は、鳴海が工房で研ぎ直すために預かってくれている。手元の空いた時間で今夜の仕込みを済ませ、俺は店先の木の札を裏返した。
いつもなら営業時間を示す裏面に、チョークで『明晩――二十一日目の零時から二時は公開検証のため計画休業』と書き込む。
今夜、日付が変わる二十日目の零時から二時までの通常営業は俺一人でいつも通り開けるが、明日の本試験を終えたあとの深夜だけは暖簾を下ろし、しっかり身体を休める算段だ。
本店の小さなコンロで小鍋の火を弱めた頃、防波堤の方から聞き慣れた足音が近づいてきた。
午後六時半。湾岸の二号車仕込み区画で、午後二時から透と一緒に翌朝分の仕込みを終えたリンが帰ってきたのだ。
「……ただいま、巧。透と二人で、明日の朝の分、仕込んできた」
「おかえり、リン。昼の検証室のあとで冷えたろ。まずは座ってくれ」
俺は温めておいた賄いの鶏団子スープと、生姜を効かせた菜っ葉の混ぜご飯をリンの前へ置いた。
リンは白に近い銀髪を耳にかけ、湯気の立つお椀を両手で包んでから、ふうっと息を吹きかけて一口飲んだ。
「……温かい。肩の奥、ほどける」
レンゲで鶏団子を口へ運び、ほっと目を細めたリンが、ふと荷台脇の大寸胴とネル布に視線を留めた。
「……その寸胴、明日、機構へ積んでいくの?」
「ああ。明日の候補検体から取れる深部の牛すじは、摘出したその場で二つに分ける」
俺は番茶を急須に注ぎながら言った。
「一つは、四十八時間後の検体採取と培養判読まで氷温庫で寝かせる比較保冷用。もう一つは、明日その場で引く一番吸い物用だ。午後一時に二頭の処理を終えて正式な保冷開始時刻を切ったら、当日分はすぐこの寸胴に入れて、沸騰させずに三時間かけて出汁を引く」
リンは混ぜご飯を綺麗に平らげ、湯呑みの番茶を一口啜ってから、静かに指を折った。
「……午後一時から三時間だと、吸い物が上がるのは四時過ぎだね。私、明日も一時十五分には会場を出て、二時から湾岸で透と仕込みがあるから、そこにはいられない」
「湾岸の仕込み、時間をずらすか?」
俺が訊くと、リンはすぐに首を横に振った。
「……ううん。二号車の朝の百五十食は、透と私の持ち場だから。当日の一番吸い物は、審査の人たちに飲ませてあげて。私は、夜に帰ってきてから巧に味を聞くよ」
湯呑みを包んだままこちらを見る目に、俺は小さく頷いた。
「違いない。なら、氷温庫で寝かせる方のすじは、判定が通った夜に一番いい形で残しておく。――今夜の零時から二時の本店は俺一人で回すから、リンは朝の二号車に出るまで奥で休んでいけ」
「……うん。朝営業のあとも少し寝てから、十時に機構へ行く」
リンが湯呑みを置いたところで、前庭の砂利を踏む足音が重なった。
午後七時、工房で包丁の研ぎ直しを終えた鳴海が、ジュラルミンの包丁ケースと面直し済みの砥石を抱えて姿を見せた。その後ろからは、ノート端末と小型三脚を提げたこはくもやってくる。
「真壁さん、天宮さん、お疲れさまです。昼にお預かりした二番手包丁と、全六本の固定重心基本形のうち会場へ携行する試作包丁、すべて工房で面直しした砥石に当てて仕上げてまいりました」
鳴海が前庭の作業台に白布を広げ、包丁を並べた。
「段階二の試作包丁は、昼の予備検体で硬い浅筋膜を送り切った際、小刃の角度がほんのわずか寝ていましたので、中砥と仕上砥で元の刃筋へ戻してあります」
俺はまず自分の二番手包丁を手に取り、夕暮れの名残と外灯の光に刃先を透かした。
昼に深部の境界面を撫でた峰の丸みから、切っ先のわずかな糸刃に至るまで、曇りひとつない滑らかな線が走っている。続いて試作包丁の段階二の刃先に親指の腹をそっと当てると、吸い付くような返りがピタリと揃っていた。
「いい刃がついてるな、鳴海。昼の引っかかりが綺麗に消えてる」
「ありがとうございます。……明日は公開試験ですから、私の刃付けも審査員の目に晒されるわけですね」
鳴海が砥石の水気を布で拭き取りながら、少しだけ目元を緩めた。
「晒されるどころか、一番いい仕事場だろ。最初の浅筋膜は、その段階二に預けるぞ」
「はい。外筋は私が開きます」
横で小型三脚の脚を揃えていたこはくが、ノート端末の画面を閉じて顔を上げた。
「大将、明日の公式審査中継ですけど、カメラは深部の同時比較が始まる時から、手元の刃筋と公認された試験範囲だけをきっちり映しますね! 今夜のうちの段取りや非公開の控え、原価まわりは一切カメラに入れません!」
「ああ、頼む。今はまだ配信も切ってあるし、明日の本番で手元だけ見せてくれりゃいい」
俺が大寸胴とネル布を荷台へ積み込んだ、その時だった。
ポケットの端末が短く震え、明日の公開検証に審査員として立ち会うオムニ・マテリアルズCEO、ヴィクター・ミルズからの通信を知らせた。
『確認する、ミスター・マカベ。明日の段取りに変更はないな。表層は私の機械が守る。深部は貴殿らの持ち場だ。機械がどこで止まり、職人がどこから引き受けるのか――その境界線を、私は審査席から結果で見る』
スピーカーから響く低く断定的な声に、俺は思わず口元を緩めた。
「ええ、ミルズさん。あんたのところの機械が守った表層の隣で、うちの包丁と寸胴がどんな仕事をするか、たっぷりお見せしますよ」
『……言葉は要らん。私は出た数値と断面だけを見る』
通信が切れると、隣で聞いていたリンが「……素直じゃないね」と小さく呟いた。
俺は研ぎ上がった二番手包丁をケースへ収め、荷台の扉を閉める。前夜の風が前庭を吹き抜け、遠くの防波堤から潮の匂いが届いていた。




