第66話 脂袋の反力と三人の受け渡し
正午を告げるチャイムが検証室に鳴り響くと同時に、俺はまず二番手包丁ではなく、赤く色分けされた不適合処置用のナイフを手に取った。
「久世さん、実技に入る前に、さっきの機械テストで脂袋が破れた箇所と、その脂が触れた周囲の赤身を大きく切り離して廃棄します」
「ああ、頼む。赤刃のまま、変色した境目の外まで一息に落としてくれ。専用箱の蓋と記録票は、こちらで今すぐ開ける」
俺は破袋した端から十分な安全幅を取り、変質した赤身ごと切り離して、久世さんが開けた赤い『不適合・廃棄専用ボックス』へ迷わず投入した。
久世さんがその場で重量と隔離時刻を記録し、ロックをかける。これで汚染箇所は完全に切り離された。
俺は不適合処置用のナイフと手袋を洗浄・交換し、改めて消毒済みの二番手包丁を握った。
作業台の上に残ったのは、まだ無傷の還流脂袋を二つ抱えた予備検体の深部ブロックだ。
「よし、いくぞ。最初は鳴海、固定重心試作包丁の段階二で、表層機械ラインが止まった断面から外側の浅筋膜を開いてくれ」
「はい!」
鳴海が一歩前へ出て、昨日面直しをした試作包丁の刃先を浅筋膜の端に当てた。
手首をこじるのではなく、小指と肘を連動させて支点を前へ送る『支点送り切り』。
スッ、スッ、と規則正しい音が鳴り、硬い外側の筋膜が脂袋を引っ張ることなく綺麗に左右へ開いていく。湊の持つ荷重ロガーの画面でも、波形は安全な緑色の帯の中にピタリと収まっていた。
「外筋、開きました! 次、天宮さん!」
「……うん。任せて」
鳴海が半歩下がると同時に、リンがすっとその位置へ入り、両手の指先で開いた深部牛すじの端を正確に保持した。
深部の還流脂袋は、周囲の太い牛すじとクモの巣のような細い繊維で繋がっている。ただ引っ張れば膜が裂けるが、リンは人類最強の探索者としての精密な力加減で、牛すじの張力が脂袋から逃げる角度へとミリ単位で肉を持ち上げた。
「……巧。今、袋の周りの張力、抜けた」
「ああ、よく見える。ナイスアシストだ、リン」
俺はリンの手元のすぐ脇へ二番手包丁を差し入れた。
リンが持ち上げた筋の奥で、引き攣れていた薄い膜にわずかな遊びが生まれる。ここから先は、左手の指の腹で脂袋のわずかな弾力の違い――柔らかい脂の袋と、硬い牛すじの境界面の反力を読み取り、包丁の刃ではなく峰に近い丸みを使って、撫でるように繊維を剥がしていく物理的な手仕事だ。
――トクン、と。
指先に、袋の根元の繊維が外れる小さな手応えが伝わった。
俺が包丁をすっと抜くと、白く艶やかな還流脂袋が、傷ひとつない丸ごとの形でコロンとトレイの上へ転がり出た。
周囲の深部牛すじには、酸っぱい変質臭どころか、新鮮な肉と澄んだ脂の甘い香りだけが残っている。
二つ目の脂袋も同じ三段リレー――鳴海の外筋開放、リンの張力保持、俺の境界面剥離――でつっかえることなく抜き取ると、壁際の時計はまだ十二時四十五分を指していた。
「……二個とも無傷で摘出完了! 深部ブロック一単位あたりのリレー処理時間は、わずか十一分二十秒です!」
湊がロガーの画面を見て弾んだ声を上げ、こはくも「三人の入れ替わりがガチで流れるみたいでした! これなら明日の審査中継でも、どこで誰が何をしてるか一目で図解できます!」とメモを走らせた。
久世さんは摘出された無傷の脂袋を不可食廃棄トレイへ分け、残った綺麗な深部牛すじの断面と中心温度計の値をルーペで確認して、深く満足げに頷いた。
「十一分強か。今回の測定でも、深部温度の上昇は管理基準内にきっちり収まっている。……これならいけるぞ、真壁店主」
「ええ。ただ、今の十一分二十秒は深部一区画だけの時間です。明日の本番は午後一時の保冷開始までを揃えるから、残りの十五分でこの予備検体の包装と庫入れの手順も合わせておきましょう」
「うむ、そうしよう」
午後一時ちょうどに予備検体のすべての計測と処置を閉じ、俺と鳴海は洗浄区画で二番手包丁と試作包丁を洗い上げ、アルコール消毒を済ませた。
鳴海が清潔な布で水気を拭い、親指の腹でそっと刃先を確かめた。
「硬い浅筋膜を開いた分、わずかに刃先の返りが変わっています。試作包丁と真壁さんの二番手は一度私が預かり、夜までに面直しした砥石で研ぎ直して本店へお届けします」
「頼むよ、鳴海。明日は一発勝負だ」
壁の時計が午後一時十五分を指し、白衣を脱いだリンがエプロンを畳んだ。
「……巧、先に湾岸へ行く。二時から、透と明日の朝の分を仕込むから」
「ああ、気をつけてな。夕方終わったら、本店で温かいもん作って待ってる」
小さく頷いて検証室を出ていくリンの背中を見送り、久世さんが記録バインダーを閉じた。
「明朝十時に入る本番の二頭は、一頭を機械単独の対照、もう一頭を今の二層リレーで並走させ、午後一時ちょうどに共通の保冷開始時刻を切る。――明日が本番だ、よろしく頼む」




