第65話 午前十時の計測室と表層の軍配
十九日目の午前十一時に目を覚ました俺は、冷たい水で顔を洗い、指先の腹を軽く擦り合わせた。
刃の返りを拾う感覚に濁りはない。身支度を整えて防波堤を出ると、約束の午前十一時半に広域鮮度流通機構の第一検証室へ入った。
消毒槽で長靴の底を洗い、氷水のように冷たい手洗い槽で爪の間まで流して白衣の袖を締める。十度設定のガラス張りの室内では、先行枠で入っていたリンと鳴海、湊、それに久世さんとこはくがステンレス作業台を囲んでいた。すでに表層の切り分けを終えた後らしく、冷えた空気の中に新しい脂の匂いがわずかに残っている。
「おはようございます、真壁さん。先行の表層分離と計測、いま一通り上がりました」
鳴海が背筋を伸ばして迎え、隣でリンが白衣のマスク越しに小さく頷いた。朝の湾岸営業のあとにひと眠りしてきた目元は、もうすっかり澄んでいる。
「……おはよう、巧。表層、機械の隣で一緒に引いた。速かったよ」
「お疲れさま、リン。みんなも朝からありがとな。で、数字と断面はどう出た?」
俺が尋ねると、湊がタブレットの計測画面を俺の前へ向け、久世さんが作業台の上のトレイを指差した。
「こちらが十時半から十一時半の間に計測した、予備検証用検体――明日の正式比較で使う二頭とは別単位で入荷した個体――の表層データです」
湊が画面のグラフを拡大した。
「表層の肩バラと外ロースのトリミングおよびスライスにおいて、標準機械ラインは職人班の手作業に比べて処理速度が二・四倍。さらに冷却ブレードによる表面温度の維持と、ふき取り検査での初期清浄度でも、機械ラインが明確に優位という数値が出ました」
俺は作業台に並べられた予備検体の表層断面を、手袋越しに指の腹でそっと確かめた。
機械が落とした表層肉は、昨日のバラ肉と同じく脂の角がピンと立ち、表面の乾きや温度上昇による緩みが一切ない。
「……昨日のバラに続いて、肩バラと外ロースも文句なしだな。表層はこのまま機械ラインに任せていい」
俺がトレイから手を引くと、ガラス窓の向こうに並ぶ検査員たちが手元の記録端末に目を落とした。
誰も表層の数字には異を唱えない。だが、窓の向こうの硬い視線はすぐに作業台の中央――ステンレスカバーが掛けられたままの『深部ブロック』へと集まった。
久世さんも表情を緩めず、そのカバーの取っ手に指をかけた。
「問題はここからだ、真壁店主。十一時二十分、先行工程の最後に、この予備検体の深部ブロックの一端へ機械の定圧ブレードをそのまま入れてみた」
久世さんがステンレスカバーを外すと、分厚い内筋の奥に、白く濁った鶏卵ほどの『還流脂袋』が覗いていた。
機械の定圧刃が迫った箇所だけ、太い牛すじに引っ張られて脂袋の薄い膜が限界まで張り詰め、その端がわずか二ミリほど裂けている。
そこから滲み出た黄色い還流脂が周囲の赤身に触れ、鼻を近づけると、すでにツンと鼻をつく酸っぱい変質臭――酸敗の兆候が立ち始めていた。
「……定圧刃が浅筋膜の癒着部に噛んだところで、奥のすじまで一緒に引いていますね。機械の刃は、この五ミリ手前の境界で止める必要があります」
鳴海がブレードの停止痕を指先で辿り、険しい目で言った。
「これだけ酸敗が早ければ、ライン任せにするなと検査員たちが渋るのも無理はない。一度でも還流脂が触れた赤身は、もう流通には乗せられんからな」
久世さんの言葉に頷きながら、俺は黄色い脂が滲んだ赤身の変色幅を目で測った。
「ええ。この匂いが回った肉は、どう炊いたって飯には戻らない。破れた端は大きく切り離して捨てる――その上で、機械が止まった断面から奥を俺たちの手で繋ぎますよ」
俺は腰のケースから現役の二番手包丁を取り出し、鳴海とリンを見た。
「時刻はちょうど正午だ。リンの退出時刻の一時十五分まであと一時間ちょっと――この予備検体を使って、破袋部位の隔離廃棄と、残る深部から脂袋を無傷で抜く『三段リレー』の受け渡しを今ここで固めるぞ」




