第64話 五百円の王道牛皿と審査官の箸
午後八時、まかべ食堂本店の厨房から、甘辛い醤油とみりん、そして生姜の香りが防波堤へ立ち昇った。
手元だけを映すこはくの配信カメラの赤いランプが灯り、待機していた世界中の視聴者から『きたあああ!』『今夜は牛皿!?』『お腹すいた!』と軽快なコメントが流れ始める。
俺は小寸胴の中で沸き立つ飴色の割り下へ、久世さんが持参した先行確認用の双層雷牛・表層バラ肉を一枚ずつ広げるようにくぐらせた。
標準機械ラインの高速スライサーで三ミリ厚にピタリと揃えられたバラ肉は、熱い割り下に触れた瞬間、端から同じ速度で美しい桜色から淡い狐色へと変わっていく。
「見ての通り、今日のバラ肉は機構の標準機械ラインで切り出された通常規格の肉だ。厚みが完全に均一だから、こうして大鍋でサッと炊いた時に、一枚の中で硬い部分と生煮えの部分が出ない。中心までしっかり火を通しながら、脂の甘みを一番いい状態で止められるんだ」
俺が菜箸で肉を返し、くたくたに煮えた玉葱と一緒に平皿へ盛り付けると、コメント欄が『断面めっちゃ綺麗!』『機械切りだから火通りが揃うのか、なるほど!』『おっさんが機械の良さを褒めるの好き』と一気に湧いた。
仕上げにおろし生姜を少し添え、炊きたての白飯と油揚げの味噌汁を四つずつ並べる。
「お待たせ。標準ラインの表層バラで作った『王道牛皿定食』だ。冷めないうちに食ってくれ」
カウンターに並んだ久世さん、リン、そして撮影を固定カメラに切り替えたこはくの前に、湯気の立つ牛皿が置かれた。
久世さんは少し緊張した面持ちで割り箸を割り、飴色に輝くバラ肉を一枚つまんで、そのまま口へ運んだ。
――ふっ、と。
いつも厳しい検査官の目尻が、湯気の向こうで柔らかく緩んだ。
「……柔らかい。機械で切った表層肉なのに、パサつきが一切ないな。脂の甘みと生姜の効いた割り下が、噛むほどにじゅわっと染み出してくる」
「次は白飯の上でバウンドさせてみてください、久世さん! それが牛皿の正義です!」
こはくに促され、久世さんはタレの絡んだバラ肉と玉葱を熱々の白飯の上へ乗せ、タレが染みた飯と一緒に大きく掻き込んだ。
もぐもぐと咀嚼し、熱い味噌汁で追いかけた後、久世さんは深い息を吐いて天井を仰いだ。
「……美味いな。本当に、文句なしに美味い」
久世さんはタレの染みた白飯へもう一度箸を伸ばし、煮えた玉葱と一緒に口へ運んだ。
「……夜勤明けに五百円でこの一皿と白飯が待っているなら、それだけで人は明日も働ける。深部の破袋を理由に、この並肉まで市場から消すわけにはいかんな」
隣ではリンが、おろし生姜を少し乗せたバラ肉で白飯を包み、迷いのない綺麗な手つきで箸を進めていた。
「……うん。生姜が効いてて、ご飯が進む」
椀の味噌汁で口を整え、リンが静かに頷いた。
「ガチで最高です、大将! すみません、白飯おかわりもらっていいですか!」
こはくが茶碗を差し出し、俺も自分の皿の牛皿を白飯と一緒に平らげた。
四人で小寸胴のバラ肉を最後の一切れ、玉葱の端まで綺麗に完食し、先行確認用の検体は一皿も残さず俺たちの腹に収まった。
午後九時過ぎ、こはくがカメラの電源を切って機材を片付け、俺たちは温かい番茶で一息ついた。
「ごちそうさま、真壁店主。明日十九日目の午前十時半には、本番の二頭とは別枠で確保した『予備検証用の深部検体』が第一検証室へ届く。いい線引きにしよう」
「ええ。牛皿の借りは、明日の包丁で返しますよ」
満足げに頷いた久世さんとこはくが防波堤を後にすると、時刻は午後十時前になっていた。
小寸胴と茶碗を洗い終えた午後十時半、リンがエプロンを外して控室の戸に手をかけた。
「……巧、先に寝る。目覚まし、一時半にかけた」
「ああ、ゆっくり休め。最後の三十分だけ頼むな」
「……うん。おやすみ、巧」
リンが控室で仮眠に入り、俺は深夜零時から一人で本店の暖簾を出した。
午前一時半に起きてきたリンと二時までの営業と片付けを済ませ、午前三時半前、三時四十五分からの湾岸朝営業へ向かうリンと透を送り出してから、俺は午前四時に控室の布団へ入った。




