第63話 機械の切り口、職人の砥石
午後六時半、防波堤のまかべ食堂本店の前に、鳴海蓮司と佐伯湊が到着した。
鳴海工房の若手三人は、昨日の最終試験で手首に痛みや熱感が出ないことを確認した上で、今日は無理のない通常枠の精肉作業を定時で終えて帰ったという。
「お待たせいたしました、真壁さん、久世検査官。工房で消毒・保管していた固定重心試作包丁六本のうち、明日の予備検証で使う携行分と、仕上げ用の砥石一式を持ってまいりました」
鳴海が丁寧な一礼と共にジュラルミンケースを作業台へ置き、湊も隣のケースから小型の荷重ロガーを取り出した。
「まずは、昼に久世さんが持参した先行確認用の牛バラ肉を全員で見ておこう」
俺は本店の四度保冷庫から、昼に預かった双層雷牛の表層バラ肉のトレイを取り出し、清潔なステンレスバットの上へ広げた。
照明の下に並んだ三ミリ厚のバラ肉を、俺は清潔なトングで一枚持ち上げて見せた。
赤身と白い脂の角がくっきりと立った断面を一瞥し、鳴海が静かに頷く。
「この断面なら、表層に私たちの手直しは要りませんね。焦点は、この下で機械の定圧刃が止まる深部の境界です」
「久世検査官の添付ログでも、表層の冷却スライスは温度上昇ゼロコンマ二度以内で揃っています。明日の先行計測は、その境界へ刃を入れる初動荷重からロガーを合わせますね」
湊が記録紙の数値を小型ロガーへ打ち込み、鳴海は作業台の端に洗い桶と砥石を据えた。
「では、明日の深部予備検証に向けて、湊さんの試作包丁と真壁さんの二番手包丁の刃付けを点検しておきます」
鳴海はまず、ダイヤモンド砥石で仕上げ砥の表面を平らに削る『面直し』から始めた。
シャリ、シャリ、と一定のテンポで砥石の面が整えられ、澄んだ水音と鉄の匂いが夕方の海風に混じる。
ケースから取り出された試作包丁は、将来の可変構想に先立つ固定重心の基本形として、湊が手のひらの中央に重心が収まるよう製造した一本だ。
鳴海はその鋼材の刃先を、面直ししたばかりの砥石へ静かに当てた。
スーッ、スーッ、と。
静かな水音と共に、砥石の表面へ淡い研ぎ汁が滲み出る。
手首をぶらすことなく一定の角度で鋼材を滑らせ、鳴海は俺の二番手包丁に続けて試作包丁の刃先を整えていく。硬い外筋にしっかり噛み込み、かつ余計な引っ掛かりを残さない実戦の刃付けだった。
「……深部の還流脂袋は、外側の硬い浅筋膜と癒着していると聞きました。最初は私がこの試作包丁の段階二で外筋を『支点送り切り』で開き、次に天宮さんが張力を支え、最後に真壁さんが二番手包丁で脂袋の境界面を剥離する三段リレーはいかがでしょうか」
鳴海が研ぎ上がった試作包丁の刃先を水で洗い、親指の腹でわずかな返りを確かめながら提案した。
「……いいと思う。私が筋のテンションを一定に保てば、巧が袋の膜だけに集中できる」
リンが頷き、俺も鳴海から手渡された自分の二番手包丁の刃筋を光に透かした。
「よし、その三段リレーでいこう。明日の先行計測から、よろしく頼むぞ」
「承知いたしました。では、私と佐伯技師は明朝の準備に備えて、これにて失礼いたします」
「計測機材の準備、バッチリ整えておきますね!」
鳴海と湊が試作包丁をケースに収めて防波堤を後にすると、時刻は午後七時半を回っていた。
残ったのは俺とリン、久世さん、そしてカメラの三脚を据え直しているこはくの四人だ。
俺は厨房へ戻り、コンロの上の小寸胴に火をつけた。
「さて、理屈と段取りは十分だ。明日の予備検証へ進む前に、まずはこの機械切りのバラ肉がどれだけ旨い飯になるか、四人の腹に入れて確かめておこうぜ」
「おっ、待ってました! 久世さん、カメラ回してもいいですか? 機密の数値は映さず、純粋に『標準機械ラインの通常規格肉で作る王道牛皿』の飯テロ枠として撮りたいんです!」
こはくが目を輝かせて尋ねると、久世さんは少し照れたように咳払いをした。
「……私の顔が映るのは構わんが、主役はそのバラ肉だぞ」
「もちろんです! 特級肉だけじゃなく、毎日みんなが食べてる通常規格の肉がこんなに美味しそうに炊き上がるところを見せるのが、うちのチャンネルの原点ですから!」
俺は笑いながら、秘伝の割り下の瓶に手を伸ばした。




