第62話 二号車のまな板と二層の設計図
午後二時の湾岸仕込み区画には、大寸胴の湯が沸く音と、まな板を叩く包丁の音が響いていた。
朝の二号車営業を終えたあと、私は六時四十五分から十一時十五分までの四時間半の補眠を取ってからこの作業場へ入った。隣の伊吹透も、朝の補眠を済ませて大鍋の前に立っている。
「リン、洗米と浸水は終わったぞ。次は明朝用の端材二十キロ、筋引きから入るか」
「……うん。私が硬い膜と太い筋を引く。透は、一口大の切り分けと下茹での温度を見て」
「おう、任せておけ」
保冷庫から出した四度管理のバットを並べ、毎朝港へ出す百五十食分の仕込みに手を動かす。
私が包丁の刃先を寝かせて端材の白い膜をすっと剥がし、隣のまな板へ送る。透がそれを受け取って均一な大きさに切り揃え、沸騰した湯へくぐらせては網でアクをすくい取っていく。皮を剥いた生姜の爽やかな香りが、白い湯気と一緒に作業場へ広がった。
最後のバットの筋を引き終え、包丁を洗って布巾で水気を拭ったところで、透が鍋の火加減を落としながら口を開いた。
「……なあリン。昨夜、久世の旦那が工房で話してた公開比較検証、明日からの段取りはどうするんだ? 検査場へ入るとしたら、昼の時間が重なるだろう」
私は拭いた包丁を鞘に収め、静かに頷いた。
「……うん。明日十九日目の予備検証と、明後日二十日目の本試験、どっちも私は参加する。深部の筋を支えて巧の包丁に繋ぐ役目は、私の手でやりたい」
そのまま作業台の時計を見上げ、透の目をまっすぐ見た。
「でも、この午後の仕込みは絶対に削らない。透一人に二号車の持ち場は背負わせない。ここに間に合う条件で、本店で話してくる」
透は少し目を丸くしてから、すぐに白い歯を見せて笑った。
「はは、二号車の店主見習いは言うことが違うな。わかった、なら明日も明後日も、いつも通り二人でまな板の前に立とう」
午後五時四十五分、下茹でした端材の急冷と四度保冷庫への格納まできっちり二人で終わらせたところで、透が鉄板の隅に余った端材を少しだけ乗せ、塩と胡椒を振って強火で焼き上げた。
香ばしい脂が弾ける小皿を、作業台の端に二つ並べる。
「ほらよ、今日の仕込み上がりの賄いだ。明朝の火加減の確認も兼ねて、熱いうちに食っちまいな」
「……ありがとう。いただきます」
二人で作業台の端に立ったまま、焼きたての端材を箸でつまんで頬張る。
表面はカリッと香ばしく、噛むと生姜の下味が染みた肉の旨味がじゅわっと舌の上に広がった。
「……塩加減、ちょうどいい。明日の朝も、この火入れでいこう」
「よし、決まりだ。俺は器具を片付けたら上がって、今夜も睡眠時間を確保する。本店での打ち合わせ、よろしく頼むぜ」
透と挨拶を交わして湾岸を出た私は、三十分かけて午後六時過ぎに防波堤のまかべ食堂本店へ戻った。
フードトラックの前の折り畳みテーブルでは、巧と久世さん、そしてカメラバッグを提げた白瀬こはくが、要項書と時刻表の案を広げていた。
「お帰りなさい、リンさん! ちょうど今、明日からの検証スケジュールを合わせてたところなんです!」
こはくが明るい声で手を振り、私は巧の隣に腰を下ろした。
「……ただいま。久世さん、明日十九日目の予備検証と、明後日二十日目の本試験、私も参加したい」
私が切り出すと、久世さんが書類から顔を上げた。私はそのまま言葉を継ぐ。
「でも、二号車の午後仕込みは、二時から六時まで透と二人でいつも通りやる。移動に三十分かかるから、私は昼の一時十五分には検査場を出たい」
私の出した条件に、隣で聞いていた巧が「俺も深夜営業のあと、四時から十一時までは寝かせてもらうぞ」と添える。
久世さんは手元のスケジュール案を二枚見比べ、そのうちの一枚を選び取って赤ペンで枠を引いた。
「承知した。天宮さんが午後一時十五分に退出でき、真壁店主の睡眠も崩さないよう、二日ともこの『二段構えの検証窓』を採用しよう」
久世さんがペン先で時刻表を示した。
「まず午前十時からは、うちの標準機械ラインと鳴海親方・佐伯技師・天宮さんの先行班で『先行計測と表層分離』を進める。真壁店主は十一時半に検査場へ合流し、そこから午後一時までの実技窓で深部の脂袋を処理する。明後日の本試験もこの枠で揃え、午後一時ちょうどを対照と候補の共通時計――四十八時間保冷の開始時刻とする」
「ありがたい。時間を分けるその二段構えなら、俺の包丁もリンの二号車も無理なく回るな」
巧が頷き、さらに要項書の下段にある費用と保冷の欄に指を置いた。
「それと久世さん、明後日の本試験で使う双層雷牛二頭の仕入れ代は、共同検証費として機構とまかべ食堂の折半でいきましょう。比較保冷する検体をうちの保冷庫で預かる占有分と冷保管の光熱費負担も、検証の必要経費としてうちが引き受けます。その代わり、本試験が終わった二十日目の深夜営業だけは一回計画休業にして、体を休めますよ」
「……すまないな、真壁店主。機構内の保守派に『特定業者への利益供与だ』と揚げ足を取らせないためには、費用と保冷負担を分け合う共同検証の形が一番強い」
「毎日の牛皿と自分たちの持ち場を守るための経費ですよ」
巧がさらりと言い、私も「……私も、それでいい。自分の店の仕事は、自分たちで持つ」と頷いた。
すると、こはくがタブレット端末の配置図を開いて身を乗り出した。
「なら、カメラの位置もその二段窓に合わせますね! 十時からの先行計測と、十一時半からの三人の受け渡しで画角を切り替えて、十三時の共通時計までにどの工程が進んでいるか画面の端へ図解ラベルを出せるように組んでおきます!」
「助かるよ、こはく。――おっ、向こうから鳴海と湊もやってきたぞ」
巧の声に顔を上げると、夕暮れの防波堤の向こうから、包丁ケースと砥石を提げた鳴海と、計測鞄を抱えた佐伯湊が歩いてくるのが見えた。




