第68話 二頭の双層雷牛と十一時半の合流
二十日目の午前十一時、深夜の本店営業を終えてから眠った俺は、本店の奥で目を覚ました。肩の重みもなく、指先の血管まで温かい血が巡っている。
顔を洗って端末を見ると、湾岸の朝営業と仮眠を済ませたリンから、十時前に広域鮮度流通機構の公開検証会場へ入ったと短い連絡が届いていた。
俺は鳴海が研ぎ直してくれた二番手包丁と、寸胴やネル布を積んだ車で機構へ向かい、午前十一時半ちょうどに公開検証会場の消毒区画をくぐった。
広い検証会場のガラス窓の向こうには、久世さんやヴィクター・ミルズをはじめ、機構の保守派審査員たちがずらりと並んでいた。
十度設定のフロアへ入ると、午前十時から稼働していた標準機械ラインの冷却ブレードが静かに停止するところで、鳴海、リン、湊の三人が俺を迎えた。
「おはようございます、真壁さん。十時に搬入した双層雷牛二頭とも、標準機械ラインでの表層の分離包装が今ちょうど完了し、深部ブロックが露出しています」
鳴海が停止したブレードの奥を示し、湊が先行工程の記録タブレットを差し出した。
「左が機械単独で最後まで通す対照検体、右がここから職人班で引き継ぐ二層リレー候補検体です。先行して切り離した両個体の肩バラと外ロースは、表面温度二・一度、初期ふき取りの清浄度も基準内で保冷カートへ収めました」
俺は保冷カートに並べられた、二頭分の包装済み表層バラ肉をガラス越しに覗き込んだ。
透明なフィルムの向こうで、均一な三ミリ厚に引かれた鮮やかな赤身と白い脂の層が、角をピンと立てて並んでいる。ドリップの滲みも一切ない。
「……よし。両方とも、牛皿の分は文句なしの一級品のままだな」
俺が頷くと、隣に立ったリンが白衣の袖を整えながら言った。
「……表層は、機械が綺麗に守った。ここからは、私たちの番」
その時、審査席のマイクが入り、保守派の年配審査員が硬い声で問いかけてきた。
『久世統括検査官に確認したい。これより二頭それぞれの深部ブロックへ進むわけだが、もし機械単独で処理する対照検体で昨日と同じく還流脂袋の破袋が起きた場合、この双層雷牛のロット自体を危険とみなして、候補検体も含めて不合格とすべきではないのかね?』
流通の安全を預かる検査官として、汚染の波及を危惧するもっともな問いだった。
審査席の中央で久世さんが立ち上がり、マイクのスイッチを入れた。
『両個体の表層部位は、すでに健全な通常規格肉として完全に切り離し、別カートで確保済みです。これからの深部比較で機械単独の対照検体に破袋が起きた場合は、規定通りその破袋深部と接触範囲のみを即座に不適合隔離・廃棄し、既分離の表層へは一切触れさせません』
続いて隣のミルズがマイクを引き寄せ、審査員席へ視線を向けた。
『確認する。対照ラインの破袋は機械の停止境界を示す比較結果であり、別ラインの失格理由にはならん。むろん、二層リレー候補の側で破袋、酸敗臭、温度逸脱、あるいは後の菌数基準超過が一つでも出れば、その時点で即座に不合格・採択保留とする。だが、候補側の合否は、候補自身の無傷性と数値のみで独立して判定する』
隔離の範囲と棄却の基準が明確に示され、質問した審査員も手元の規約書に目を落として納得したように頷いた。
「ありがとう、久世さん、ミルズさん」
俺は二番手包丁の柄を握り、鳴海とリン、そして中継カメラを構えるこはくへ目配せした。
「時刻は十一時四十五分だ。午後一時の共通時計まで、対照ラインと同時に深部へ入るぞ」
「「はい!」」
「……いくよ、巧」
こはくの公式審査中継カメラの赤いランプが灯り、俺たちの手元を映し出す。
画面の端には、リアルタイムの視聴者コメントが流れ始めた。
『始まった! 公開比較試験!』
『表層のお肉はもう両方の牛とも機械で綺麗にパックされてるんだな』
『ここからが問題の深部ブロックか……!』
合図のブザーと共に、隣の対照ラインでは標準機械のアームが動き出し、一定の圧力で深部ブロックへ直刃のブレードを押し当てた。
同じ瞬間、俺たちの候補ラインでは、鳴海が固定重心試作包丁の段階二を構え、機械が止まった断面から外側の浅筋膜へと刃先を滑り込ませた。
スッ、スッ、と鳴海の包丁が小気味よい音を立てて硬い外筋を開いていく。
時計の針が正午を回った、その時だった。
――ブツッ、と。
隣の対照ラインから、張り詰めたゴムが千切れるような鈍い破裂音が響いた。
機械の定圧ブレードが深部の太い牛すじを押し込んだ反動で、奥の還流脂袋が大きく裂け、黄色く濁った脂が断面へとどっと滲み出したのだ。
審査席の保守派たちが息を呑み、ガラスの向こうで顔をしかめるのが見えた。




