第60話 鹿スネ味噌煮込みの祝杯と線引きの招待状
午後六時四十五分。鳴海解体工房の大きな作業卓の中央に、赤ワインと八丁味噌のソースが艶やかに絡んだ『鹿スネ肉の赤ワイン味噌煮込み』の大皿が並んだ。
脇にはリンと透が湾岸から運んできた湯気の立つ白飯の保温釜と、皮の香ばしいバゲットの籠。十人分のグラスには、この後の深夜営業や翌朝の仕事に障らないよう、冷えたノンアルコールの赤葡萄果汁が注がれている。
「では――三人とも、最終実技の合格おめでとう。今日までの手仕事を労って、乾杯」
「「「乾杯!」」」
鳴海の音頭で十個のグラスが澄んだ音を立てた。
俺は取り分け用のトングを置き、大皿の真ん中で湯気を上げる塊肉を顎で示した。
「まずは外した本人たちからいけ。今日、自分たちの手で骨から剥がしたスネだ」
若手三人が顔を見合わせ、それぞれの深皿へ塊肉と濃い飴色のソースを取り分けて、揃って箸を入れた。
――すっ、と。
力を込めるよりも先に、分厚い鹿スネ肉の赤身が箸先で繊維に沿ってほろりと割れた。開いた断面から、赤ワインの芳醇な香りと八丁味噌の甘い湯気がふわりと立ち昇る。
そのまま大きな一切れを口へ運んだ元後輩の若手が、二度、三度と噛みしめたところで目を丸くして動きを止めた。ゆっくり飲み込んでから、自分の右手のひらと皿の上の断面を交互に見つめる。
「……あんなに刃を止めてきた二重腱の奥に、こんな柔らかい身が隠れてたんですね。噛むと、筋のゼラチンが舌の上でとろけます……」
隣の復帰組の若手は、言葉より先に保温釜へ手を伸ばしていた。茶碗に盛った炊きたての白飯の上へ、ソースをたっぷり纏ったスネ肉を乗せて一気に掻き込む。
「これ、白飯が止まらないやつです! 味噌の渋みが全然なくて、濃い赤身の旨味がそのまま米に染みます!」
十頭耐久を走り抜いた無傷の若手は、白飯の茶碗を脇に置いたままバゲットをちぎり、皿に溜まったソースを白い断面にたっぷり吸わせて頬張った。
「パンもすごく合いますよ。ワインの香りで、いくらでも入ります」
三人の箸と手が競うように動き出し、試験終わりまで作業場に残っていた張り詰めた空気が、湯気の向こうへすっとほどけていく。
俺も自分の深皿からスネ肉を一切れつまみ、口へ運んだ。
表面の膜を荒らさず塊のまま外してあるから、二時間半煮込んでも肉の角がだれていない。歯を当てると赤身の繊維がすっとほどけ、奥にとどまっていたゼラチン質のとろみと温かい煮汁が舌の上に広がった。ちぎったバゲットで皿の端を拭って齧ると、八丁味噌の深いコクのあとを、赤ワインの酸味がすっきりと切ってくれる。
「……ん。美味しい」
隣ではリンが、小さく割ったスネ肉を白飯と一緒に口へ運んでいた。白い頬をわずかに緩め、空になった茶碗を持って保温釜の前へ立つ。
「味噌なのに、重くない。ワインの酸味で、あと口がすっきりしてる」
迷いなく二杯目をよそうリンを見て、向かいでバゲットを齧っていた伊吹透が苦笑しながら自分の皿を覗き込んだ。
「最初に鉄鍋で表面を強く焼き固めてから、赤ワインと八丁味噌で落としてるんだな。スネのゼラチンがソースのつなぎになってて、皿の上で少し冷めても味がぼやけない。……真壁さん、この焼き付けと味噌の合わせ方、二号車に回る通常端材の煮込みでも試してみていいか」
「ああ。端材でやるなら、最初の油に潰した生姜をひとかけ足してみろ。朝の港にはその方が合う」
「生姜か。よし、次の仕込みでやってみるぜ」
透がバゲットの耳で皿の底を拭い取る横で、カチャ、と小さな金属音がした。
見れば、最初は背筋を伸ばしてナイフとフォークを動かしていた久世誠司が、カトラリーを皿の縁へ揃え、添えられていた箸に持ち替えていた。
久世は俺と鳴海の視線に気づくと、わずかに咳払いをして箸先でスネ肉の塊を一口大に割った。
「……味噌の香りを嗅いでいたら、ナイフで切るのが野暮に思えてな。私は箸でいただこう」
柔らかな赤身をゆっくりと味わい、久世は小さく息を吐いてから、バゲットで皿に残ったソースを綺麗に拭った。
「……美味いな。来週の検査場でも、気負わずあなた方の普段通りの手をそのまま見せてくれ」
「ええ。同じ刃付けで揃えて臨みますよ」
鳴海が穏やかに応じてグラスを傾け、脇ではこはくが「このソースの照り、カメラ回してたら画面の向こうが暴動でしたね!」と笑って最後のバゲットで皿を磨き上げた。佐伯湊も眼鏡の位置を直しながら、茶碗の飯粒を綺麗に拾い上げる。
十人で最終試験三脚分の食用スネ肉の煮込みと、保温釜の白飯、籠のバゲットを残さず平らげると、作業場の壁時計は午後八時半を指していた。
俺が布巾で指先を拭い、席を立とうとした時だった。それより早く、若手三人が揃って椅子を引いた。
元後輩の若手が空になった大皿を手際よく重ね、もう二人が大寸胴の取っ手を両側から抱え上げる。
「真壁さん、親方、そのまま座っててください! 洗い物と作業場の拭き上げは俺たち三人でやります!」
「明日の朝から、また通常枠の精肉作業が回ってきますから。自分たちの持ち場は、自分たちの手で片付けてから帰ります」
流し台へ運ばれていく寸胴と、すぐさま湯を出してスポンジを泡立て始める三人の背中を見送り、俺は上げかけた腰を静かに戻した。試験検体から通常納品枠の保冷ケースへ移した精肉や骨も、明日の朝にはまた彼らの手で現場へ送り出されていく。
鳴海も三人の頼もしい手つきに目を細めてから、作業台の上の包丁ケースを開けた。
「では、水回りは任せましょう。――試作包丁の基本形六本の消毒と保管は、私がやっておきます」
隣では湊が、計測器から外したセンサーケーブルを慣れた手つきで八の字に束ねて鞄へ収めている。ケースに並ぶ六本の柄を見やり、「固定重心の基本形六本はこれで形になりましたから、いずれは現場で重心を切り替えられる可変機構の設計にも手を伸ばしてみたいです」と呟く湊に、鳴海が「まずはこの六本を現場に馴染ませてからですね」と穏やかに頷いた。
玄関先では、三脚ケースを肩に担いだこはくが、コートを羽織った久世と立ち話をしている。
「久世さん、検査場の照明とカメラを置ける位置、本番前に私の方で下見に行っておきますね」
「ああ、助かる。私は機構へ戻って比較要項と会場の手配を整えるから、準備が済み次第連絡しよう」
威勢のいい水音が響く工房の前でそれぞれ挨拶を交わし、俺とリン、透の三人は、空になった保温釜とパン籠を提げて午後九時前に防波堤の本店へと戻ってきた。
夜の潮風が渡るフードトラックの脇で荷物を降ろす。明日の午前三時四十五分からは、いつものようにリンと透の二人で回す湾岸の朝営業がある。
透が空のパン籠を二号車の荷台へ積み込みながら、腕時計に目を落とした。
「よし、俺はこのまま宿へ帰って寝ておくぜ」
「ああ。俺は本店の寸胴に火を入れて、開店の支度をしておく」
俺は頷き、隣で保温釜を抱えていたリンへ視線を向けた。
「リン、お前も今のうちに奥の控室で仮眠を取っておけ」
リンは保温釜を洗い場の脇へ置き、銀色の髪を揺らして小さく頷いた。
「……うん。零時前に起きる。透、明日の朝もよろしく」
「おう、生姜粥の仕込みは万全だ。おやすみ、二人とも」
透が軽く手を挙げて港の通りへと向かい、リンも「……おやすみ、巧」と短く言って本店奥の控室へ仮眠を取りに入っていった。
そして日付が変わった十八日目の深夜零時ちょうど。
俺は防波堤のまかべ食堂本店の前に、いつもの白い暖簾を掲げた。
静かな夜の海風の中で、白い布に包んだ先代の包丁が眠る棚の下、綺麗に研ぎ上がった現役の二番手包丁の刃先が厨房の灯りを受けて澄んだ一本の光を返している。
防波堤の暗がりから、腹を空かせた夜勤明けの客たちの足音が少しずつ近づいてきた。
俺はまな板の前へ立ち、湯気の立つ寸胴の火を少しだけ上げた。
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