第59話 赤ワインと八丁味噌の寸胴、検査官の来訪
午後三時半、鳴海解体工房の付属厨房に、肉の表面を焼き固める香ばしい音と匂いが立ち昇った。
最終試験で若手三人が自力で外した鉱脈鹿の食用スネ肉取り分――まるごと三脚分の艶やかな塊肉に塩と黒胡椒を当て、俺は厚手の鉄鍋で全面に深い焼き色をつけていく。ボウルの底に赤いドリップひとつ残さない見事な塊肉が、熱い油の上で小気味よい音を立てた。
「すごい……俺たちが手首を痛めずに外したスネ肉が、端っこも崩れずにあんな綺麗な塊のまま焼かれていく……」
厨房の入口から覗き込んでいた元後輩の若手が、感無量といった声で呟いた。隣の二人も、鉄鍋から上がる香ばしい湯気を眩しそうに見つめている。
「空いたボウルを見ろ。お前たちが膜も断面も荒らさずに外した塊だ、強火に当てても端がだれずに焼き色が乗る」
俺は焼き上がった三脚分のスネ肉を大寸胴へ移し、赤ワインをたっぷり注ぎ入れてアルコールを飛ばした。そこへ炒めた玉葱とセロリ、ローリエを加え、さらに八丁味噌をベースにした合わせ味噌を溶き入れて、ひたひたのブイヨンで蓋をする。
弱火に落としてじっくりと二時間半。
途中、鳴海と一緒に丁寧にアクを引き、水分が程よく蒸発してソースにとろみが出てきた午後六時前、俺は小皿に煮汁とスネ肉の端を少しだけ取って鳴海と味見をした。
箸先で触れただけで、繊維の奥までゼラチン質が緩んだ赤身がほろりとほどける。
口に含むと、赤ワインの華やかな酸味と八丁味噌の深いコクが鹿スネ肉の濃い旨味と一体になり、噛むほどに温かい滋味が広がった。
「……見事な火入れです、真壁さん。ワインの酸味が八丁味噌の渋みを丸くして、鹿の赤身の甘みが際立っています」
「よし、火を止めて余熱で味を含ませよう。これで十人分の『鹿スネ肉の赤ワイン味噌煮込み』の完成だ」
ちょうど寸胴の火を落とした午後六時過ぎ、工房の正面扉がノックされ、スーツ姿の男が足を踏み入れてきた。
広域鮮度流通機構の統括検査官、久世誠司だった。
「夕方の忙しい時間に失礼する、真壁店主、鳴海親方。鉱脈鹿の若手実技試験が無事に完了したと佐伯技師から連絡を受けてね、結果の確認に立ち寄らせてもらった」
久世は作業場に置かれた湊の計測ログと、出荷前の通常納品枠の断面記録に目を通し、普段の厳しい目元をわずかに緩めた。
「……入職半年目の若手を含む三名全員が、手首の安全荷重域内で歩留まり八割五分以上か。一昨日の公開配信の録画も機構で拝見したが、見事な検証結果だ」
久世が書類から顔を上げた午後六時半、工房の搬入口から賑やかな足音が近づいてきた。
一足先に着いて配信機材の整理を済ませていたこはくを先頭に、六時上がりの湾岸から回ってきたリンと伊吹透が、大きな保温釜と紙袋を抱えて顔を出した。
「お疲れさまです、大将! 外まで味噌とワインのガチでいい匂いがしてましたよ!」
「おう、真壁さん、鳴海さん。湾岸の仕込みを終えて、焼き立てのバゲットと炊きたての白飯の保温釜を持ってきたぜ」
透が保温釜を作業卓へ置き、リンが一歩前へ出て、厨房の寸胴を静かに見上げた。
「……いい匂い。二号車の仕込み、終わった。打ち上げ、始めよう」
若手たちが椅子を引いて作業卓を囲み、十人の顔が揃った。
俺が大皿へ手を伸ばしかけたところで、久世が全員を見渡して、懐から一通の公式文書を取り出した。
「皆が揃ったところで、流通機構から一つ、正式な打診がある」
久世の声に、作業場の空気が心地よく引き締まった。
「今回、鳴海工房と佐伯技師、そして真壁店主の協力で、若手職人でも還流部位を安全に捌ける手順と道具の基本形が確立された。これは現場にとって非常に大きな一歩だ。――だが、だからこそ、次の段階として避けて通れない制度上の課題が生まれた」
「制度上の課題、ですか」
鳴海が問い返すと、久世は深く頷いた。
「ああ。還流期の個体が各地で増える中、現場からは『どこまでを機械の通常規格ラインで高速処理し、どの部位からを職人の特級手仕事へ回すべきか、公的な線引きを作ってほしい』という声が上がっている。機械ラインを軽視すれば毎日の安価な食卓が止まり、逆に難部位まで機械へ無理に流せば、また現場の事故や廃棄が出る」
久世は俺と鳴海、湊、そしてリンと透を順番に見た。
「そこで来週、広域鮮度流通機構の検査場にて、機械による通常規格ラインと、あなた方の特級手仕込みの『公開比較検証』を行いたい。優劣を競うのではなく、それぞれの強みと適材適所の境界線を数値と味で実証し、公的な二層流通基準を作るための検証だ。引き受けてもらえるだろうか」
俺は作業台の脇に並ぶ三人の若手と、保温釜の前に立つリンと透をちらりと見た。誰も異論はなさそうだ。
「どこから手仕事へ回すか目安がつけば、現場も店も助かる。俺は包丁と鍋を出すよ」
「当工房からは、この試作包丁六本と砥石を持ち込みます。当日は同じ刃付けで揃えておきましょう」
「なら私は、手仕込みの荷重ログを機械側の記録と並べて見比べられるよう組んでおきます」
鳴海と湊がそれぞれの段取りを請け負い、リンも透と目を合わせて「……二号車も、端材の活かし方で協力する」と短く頷いた。
「礼を言う。では、詳細の日程は追って通達しよう」
久世が書類をしまい、俺は寸胴の蓋を開けて大皿へ熱々の煮込みを盛り付けた。
「よし、難しい話はここまでだ。冷めないうちに、十人で打ち上げを始めよう」




